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自殺幇助という罪

日本は自殺大国だと言われ続けてきた。

失業率が上がれば自殺が増えるというのはセオリーで、日本は長らく低失業率が売りの国ではあったが、どうやら新型コロナの影響が長期化すると、失業率の上昇は避けられないだろう。

失業率の上昇が自殺率の上昇と聞くと、なんだか失業のショックで人生を諦めてしまったように感じるが、実際の所、自殺というのは根深い問題ではある。

とりあえず日本において新しい仕事を得ることであったり、新しい環境に飛び込むというのはハードルとして非常に高い。

大学に入るのは難しいが、入ってからは実力など関係ないように、会社も同様で、入るのに難しくても入ってしまえば、こっちのもんという感じではある。

失業という聞こえは悪いが、言ってしまえば、仕事を辞めただけの状態ではある。冷静に考えれば、始まりがあれば終りがあるので、そんな非常事態のような捉え方をする方がおかしいと思うが、やはり日本の就業制度にしろ、このコロナの現状を見ると、なかなか難しい問題ではある。

新しく就職しようとしても、役所と民間の間のような組織だと、未だに履歴書を手書きで送ってくださいなどと平気で書いてあるところがある。理由を聞いても「受験者の公平を期すため」と訳のわからない回答をされたことがある。たまたま指を骨折している人にも公平なのだろうか。

日本の新卒採用が売り手市場になったことで、いろいろと採用においても改革が進んでいるんだろうが、個人的な偏見を持った意見としては、採用においてどうやって優秀な人材を確保しようとしているのかが見えないということはある。

私は腐るほど企業の面接を受けたが、大体どの企業も選考方法は同じだ。そして質問も似たような質問ばかりするし、正直よくわからない。

もちろんめちゃくちゃ面接に軽く通るような人だと、話した瞬間に何かわかるのかもしれないが、そのような人材は希少だと思うので、私が受けるような企業は受けないだろうし、無名の零細企業に優秀すぎる人材が受けても、逆に採られない可能性もある。

とりあえず話を戻すと、コロナなどを機に一度大きな失業を経験するような人は、アルバイトの人であったり、切られる側なので社会的地位もそこまで高くない人のような気はする。

そのような人達であれば再就職で、前の給与水準と同じようなレベルの仕事を見つけるのは苦労するかもしれないし、年齢制限があるので年配の人にとっては厳しいかもしれない。

警備員などは年配の方が多いし、飲食業で失業したとしたら、ほかの飲食業も自粛で閉店しているので、なかなか同業種への就職が難しい。

いざ異業種への就職となれば、経験がないということで難しいかもしれない。

そのような狭間でずっと社会から排除され続けていると、どうも自分という人間が信じられなくなってくる。

自分に実力がないからとか、今までの自分の生き方が間違っていたのかとか、普通に今まで楽しく一生懸命働いていたのに、面接官はその事実を理解しようとしないし、一度失業しただけで収入源が絶たれてしまう。

今までの給与水準がキープできないので家賃を下げようと新しい家に引っ越そうにも、高齢者は家を借りられないし、失業者も家を借りるのは相当難しい。

全てが思うようにいかないと、社会から排除されているような気分になってくる。日本において失業するということはある程度の社会経験があればそれなりにヤバいことだとは知っているはずなのに、別に現時点で金に困ってもない人間に、四苦八苦している自分が情け容赦なく蹴散らされる状況が続くとそれなりに精神も疲弊してくる。

そのようにして再び社会に出ることを諦める人が大勢いる。就職したいなどという気があればまだいいが、精神が疲弊して何も手につかないようになってしまうと、もはや死んだほうが楽なんじゃないかという考えが過る。

自分としては働きたいから就職活動していたのに、自分がいくら頑張っても受け入れる側が拒否し続ければ永久に仕事につけない。これは恋愛でもこちら側がずっと好きでも、好きな人と結婚できるわけではない。至極当たり前のことではある。

ただ、仕事というのは自分にある程度できる事と出来ないことがあるので、どんな仕事でも良いというわけではない。

そのようにいろいろ考えて、自分の部屋に閉じこもる人が多い。ただ、コロナで少し良かったと思った点は、コロナ自粛により、世の中の人で「ひきこもり」が置かれる状況について理解できた人が感覚的に増えたのではないだろうか。

逆に引きこもりの人も堂々と引きこもれるという状況ではあったので、ある意味失業などの経済的損失を除けば、他者理解へ繋がったのではないかと勝手に考えている。

数ヶ月の自由な自粛で、大変だなどと言う人は、何年も自分の部屋に引きこもる状況がどれだけ大変なことか理解できるだろう。

ただ、本当に失業して、仕事が見つけられずに生活が困窮している人にとっては、社会から必要とされていないのなら、引きこもるのも仕方ないと初めは考えてしまう。

ただ、長期でその状況が続くと不安が募ってくる。歳は取るので将来どうなるとか、完全に社会と断然された状況にも、この状態がどれだけ続くのかという不安から健康状態も良くならない。

失業期間が長くなるほど仕事に就きにくくなるし、失業でもパワハラでもそれらが原因で精神疾患などを抱えてしまうと、まず面接で有利になることはない。時間が経つごとに、自立の可能性や支える家族の状況がどんどん悪化していく。

イジメでも失業でも病気でも、いろいろな考えから日本では自殺へ向かう人が多い。自殺という行動へ移せなくても、本当に自殺したいと苦しみながら生きている人も多い。

日本では現状として安楽死は認められていない。いつか橋田壽賀子先生が病院のベッドの上で死を待つなんて嫌だから、安楽死させて欲しい。と綴った著書が話題となった。

自殺幇助団体としては、スイスのライフサークルやディグニタスという組織が有名だが、そこに安楽死を申請する日本人も多いようだ。

誤解しないでもらいたいが、それらの組織は失業の一時的なショックで生きていけないから自殺したい、という安直な人達を受け入れるものではない。

いくつか条件があり、何度も面接を重ねて本人の意志や、客観的に見ても当事者の人生が劇的に改善しない事が判断できたり、「生きる」という行為が苦しみそのものになっている状況から解放させる。という手助けをしているようなイメージではある。

なので、それらの機関に自殺が認められるような人は、生まれながらの難病で治る見込みがなかったり、それでもそれなりの年齢を重ねた人であったり、安易に自殺へ向かわせるものではない。

ただ、個人的にはそれらの機関があるかないかでは、疲弊した人達にとっては、なかなか精神の持ち方というのが変わってくると思う。

変な表現ではあるが、人間というのは、死ぬ為に生きているような所がある。死なない人間はいないし、人生で何を成し遂げても人間は必ず死ぬ。

重篤な病気を患って、常に介助者が必要で、病気が深刻になるにつれ、本人も周りの介助者にも負担が募っていく、というような病気の場合、ある意味「死」をゴールに設定している、という考えを持つ人が居たとしても不思議ではない気がする。

「死」の考え方は人によって違うだろうが、平均寿命が短いアフリカなどでは、高齢者が大往生した場合、そこまで生きれたということは素晴らしい事なので、その人の葬式は一種のお祭りになるらしい。

日本では基本的に「死」は不吉なイメージではある。それはおそらく日本人がなかなか死なない民族で、死が身近ではないからかもしれない。

死はだれにでも来るものなのに、受け入れるものではなく、遠ざけるものという認識がある。

自分のように親不孝な人間が言うとどうしようもないと思うが、この世に生まれてきたいと思って生まれてくる人間はいない。

親が子供を生むかどうかは選べるが、子供は親や生まれてくる年代を選ぶことは出来ない。

生まれた瞬間から、いつかは死ぬ運命ではあるし、生み落とされた後は、ある程度の年齢になれば自分ひとりで生きていくことになる。

自分の命は誰のものかと考えれば、自分のものだろう。自分でコントロール出来るものであるし、人に奪われるものでもない。

それならば、自分で死のゴールを設定するのも良いのかもしれない。それは自殺という意味ではなく、何を成し遂げるべき人生なのか自分に課すというイメージに近い。

日本では自殺幇助は罪にあたるので、安直に解禁出来るものではない気がする。それは日本にはあまりにも死にたいと考える人が多すぎるせいかもしれない。

自殺願望がある人達が悪いということではなく、何かしらそういう思考に陥りやすい構造が日本社会には潜んでいるということだと思う。

変な話、ニートでもずっと偉そうに楽しく生きている人はいるし、失業して自ら命を絶つ人もいる。同じ生物、同じ人間と考えれば両者が両立することはあり得ないわけだが、何らかの思考の違いや環境の違いで、死ぬ人と生きれる人がいることは紛れもない事実ではある。

暴論だが、仕事をできる能力があって、やる気もある人に、特別な理由もなく、その仕事をさせない構造というのは、現代社会において一種の自殺幇助とも言えるかもしれない。

実際にあった自殺幇助の問題で言えば、私が好きだった西部 邁さんの自殺を手伝った2名が裁判で裁かれて実刑を食らった事件がある。

西部さんはかなり優秀な学者で評論家であったが、持病を抱えており、何年にもわたって自殺したいとおっしゃっていた。

もちろん自殺幇助した2人とも西部さんを尊敬しており、西部さんの思想に共感していたので、本人の意志を汲んで行ったものである事は確実だろう。

西部さん自身は、貧困で収入に困るという生活ではなかっただろうし、それでも人生について深く考えていくと、自殺というものに囚われる人がいる。

自殺幇助においてWikipediaを引用すると、

・ほう助してくれる人が逮捕されないために一筆手紙を記しておくべき。
・残された家族がPTSDにならないために事前にメッセージを送るべき。
・川で死ぬことは消防や警察に多大な迷惑をかけるので、やめるべき。

と書かれている。

もし安楽死が認められていたら、自殺幇助の罪に問われる人などはいなくなる。

過去にTwitterで自殺したい人と人殺しをしたい人をマッチングさせるような事が行われて逮捕されている人がいたが、安楽死が可能な限り認められれば、そのような奇怪な事件も減らせるだろう。

ある程度の年齢になり高齢者になると、老後の生活の不安もあるだろうし、政府の年金も確実に保証できるものではない。

高齢者が、貧困を原因としてスーパーで万引をする事件がかなり増えているし、認知症やベッドで寝たきりになってしまい、本人の意志が確実なうちに伝えられず、自分の命をコントロールできる尊厳を奪われてしまう事実もある。

うちの祖母は延命治療はしないでください。と60代あたりから言っていたが、家族とそのような話をするのも、一人世帯や核家族が増えた現代では難しいと思う。

自殺を願う人は、自分が死にたいというよりは、周りの人に迷惑をこれ以上かけたくない、というような印象がある。

私の祖母は自殺したいとは一度も言わなかったが、やはり障害者で常に人の手を借りなければ自分で動けないので、周りの人の手を煩わせる事に非常に申し訳ないと思っている様子は誰が見ても明らかだった。それが本人にとって辛そうだとも感じ取れた。

今はベッドで寝たきりに近いが意識があって話せるので、私のような家族側からすれば祖母と話せるので嬉しいが、本人からすれば点滴による延命治療に近い形なので、祖母が望んだ終末に向かっているのかはわからない。

若い健康な年代から、自殺へ向かわせる何かが日本にあるのは確実だろう。金をばらまいて解決できることなら、それで解決すれば良いと思う。だが、生きるということが当然の権利とされつつも、死ぬ権利はいまだ認められない。

生まれた以上、どんな状況でも生きることを強制されているような感覚にもなる。生を貫くために死を選ぶような、いびつな構造になりつつある。

自分の発言をひっくり返すようだが、人間が何の為に生まれて何をすべきか、なんて考えるものでもないと思う。ただ、目の前の楽しいことを選んで生きていけばいいが、ただ、それが叶わない人がいるということも事実としてある。

コロナの感染拡大が続いているが、コロナには微熱の倦怠感を長期で煩わせる後遺症も報告されている。PCRで陰性後の後遺症については国は保障してくれないらしい。

自己責任論ばかりを主張する日本では、これからコロナを機に各地で社会の狭間から抜け出せない人が増えるかもしれない。



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