リアリティのダンス
[ネタバレ含みます]
公開 : 2013年5月18日
監督 : アレハンドロ・ホドロフスキー
ジャンル : ドラマ・ファンタジー
出だしから抽象的な映像と詩が出てきたりシュルレアリスムのような世界観だったりで、こりゃ難解な映画だ…と途方に暮れていたが、見終わった後に見たカンヌの舞台挨拶にて監督が「これは父との確執を描いた自伝的映画」という説明を聞き一気に合点がいった。
ホドロフスキー監督の父であるハイメは高圧的でスターリンを崇拝していた。母のサラはオペラ歌手になりたかった、だからあのような喋り方にしたのだそうだ。
監督は独裁者のような父と自分の事を嫌う母を受け入れることができず、若い時に故郷を去ったのだという。どれだけ受け入れ難くても両親という存在は消えることはないし、苦しかった過去は確かに存在した。これはそんな監督自身を救済するための映画なのだと私は解釈した。というか舞台挨拶でそんな事を言ってた気がする。
ハイメ役を監督の実の息子が演じ、その他にも何人か息子が出演したり劇中の音楽を担当している。自身の親とは上手くいかなかったが、監督自身が親となった時、今作を自分の息子達と作る事で過去の自分を救い、自身の求める「家族」を作り直したのではないだろうか。
物語は聖書の要素が至るところに散りばめられている。恐らくハイメはイエスになぞらえて描かれている。神を信じなかった父を神として描くことで父の存在を無理やり正当化させようとしているというか、私には父親に対する監督なりの仕返しのようにも感じた。
劇中に出てくる小ネタが多すぎるので私なりの解釈や気づいた点を書き出してみる
・黒い服の集団→恐らく死の概念。チリに迫る世界恐慌の波や貧困、伝染病などの驚異を表しているのでは
・行者の渡す3つのお守り→三位一体
・ロバ→馬鹿者、のろまといった意味を持つらしい。意気揚々と死に立ち向かったハイメは無残に黒い波にのまれ自分のロバをも殺される。
・イバニェスを殺し損ねる→聖書における「罪」とは的を外す事だそうだ。イバニェスという的を外した事が罪となりハイメの手は麻痺することになる。
・手の麻痺→聖書には「罪を犯した人は自分の過ちの重大さに打ちのめされることがある」という内容が書かれているらしい。つまり自分が人殺しをしようとした事の重大さに気づき打ちのめされハイメは記憶を失った。手の麻痺は二度と銃を持てないようにという意味だろう。
・イエスが神になる過程「受難」に沿って後半は描かれている。
・受難は絵画に描かれる場面で考えると「最後の晩餐」から始まるのだそうだ。キリストがパンを自らの体として、ワインを血として弟子たちに与えるという内容だ。椅子職人のホセとの出会いのシーンで壁に「最後の晩餐」の絵画が飾られ、ハイメはホセからパン(パイ?)とワインを恵んでもらっている。→これからハイメに降りかかる受難を示している。
・捕らえられる〜家族の元に帰るシーン→磔刑、十字架降架、ピエタが再現されている。父を神格化する意図があるならばこの辺りのシーンはあまりにも滑稽に描かれていた。やはり父への反骨心のようなものを感じる。
この映画のタイトルは『リアリティのダンス』だ。
では、何が「リアル」なのだろうか?監督の自伝だということを示しているのだろうか…。
その答えは、この映画は自伝的映画であると同時に「寓話的」という評価がある、という部分に隠されているのかもしれない。
最後のシーンではキリストの格好をして奇跡を起こす売り子と、その背後にはスターリンの肖像が掛けられ、無表情の仮面を被る人々が映し出される。
どんなに監督自身にとてつもなく大きな影響を与えた父が改心し180度人格が変わろうが、スターリンという絶対的存在が無くなるわけではないし世の中の大きな流れは何も変わらない。舞台上でどんなに激しいダンスを踊ろうが世界は何も変わらないのだ。それこそが監督の伝えたかったリアルであって寓話的と評価される理由なのではないだろうか。
裏を返せば、世界を動かすことのできないこれっぽっちの存在なのだからあとは自由にすればいいという、世間の目や様々なしがらみからの解放を意味しているのかもしれない。
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