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大人になるということ
カフェに行き2000円ちょっとのお会計だったとき、1000円だけを差し出すわたしに
彼は「これは晩ご飯代の足しにするね」と言ってくれる人だ。
黙って多めに払ってもらって悪いな、だけど女の子として少し多めに出してもらえると大切にされている気がして嬉しいな、
と言葉にして伝えたことはないし、
毎回全額ご馳走してほしいと思っているわけじゃないわたしにとって彼の「ご飯代の足しにするね」という反応は完璧だった。
どこで学んだんだろう?彼のお姉さんが彼をこんな風に素敵に育てたのかな?と毎回感激していた。
世の中には「奢り、奢られ論争」というものがあるらしい。
わたしにとってこれについてのスタンスは明確だ。
『多めに出してもらえると嬉しい。
全額出してもらえなくて腹が立つ相手とはもう一生ご飯に行かない。』
そしてそんなことが起きると(全額出してもらえなくて腹立つ相手とご飯に行ってしまうと)「これは事故だった」と思い、忘れることにしている。
なので世の中がそれについて熱心に議論している理由がよく分からなかった。
そういうことが時々ある。
みんなが熱心に議論しているとき、わたしは本当に心の底からどうしてそれについてみんなが語りたいのか分からない。
だって、なにがいいかは人それぞれだし、悩みを打ち明けても相手はそれについてのプロフェッショナルではないわけで、どうしてそんなことをするんだろう?と思っていた。
また久しぶりに学生時代の友人に会ったとき、もう10年も前の、当時の英語教師の話で盛り上がるということがわたしにはできない。
第一そのことについてあまり覚えていないし、覚えている必要がないと思っている。
それについて古い友人に言ってみたことがある。
「それは共通の話題を探してるだけだよ」
と言われた。
なるほど、あれは優しさだったのか。
今まで気が付かなかったことと、もしかして自分はものすごく冷たい人間なんじゃないか、と不安になった。
人になにかを相談しない。
一緒になにかについて盛り上がりたい欲求が少ない。
そんな人間は大人になると友人がどんどん減ってゆくのが分かる。
大人になるとというのは誤配かもしれない。
もともと他人との関係を築くことに難しさを感じていた。学生の頃から。
そんな自分をずっとだめなやつだと思っていた。
情けなかった。
「よっ友」がほしいと思ったことがある。
あいさつするだけの友達。
だけどあいさつ自体が苦手なのにできるはずはなかった。さみしかった。
そして大人になり、よくわたしはひとりカフェに行く。
もちろんカフェの種類によるが、ひとりで過ごしている人は意外と多い。
ただ家でご飯を食べるのがいやだったのか、お腹が空きすぎて辿り着かなかったのか、わたしのように話さないけど他人がいる空間に身をおきたかったのか、話さないから分からない。
だけどそっと思うのだ。
自分はひとりで生きているわけじゃないな、と。
もっと若い頃はずっとさみしかったけれど、よっ友がいない自分をつまらない人間だと思っていたけれど、大人になるとなんとなく自分がいるだけで誰かになにかを与えているのかもしれないと漠然と思えるようになった。
わたしがそっと誰かからもらっているように。
それが大人になるということかもしれない、と冷静に思うし、全然ちがうかもしれない。
ただそう思うのだ。
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