ウィルスミスのビンタ事件から見る日米の文化的心理背景の違い
最近、話題になってますよね。
個人的には全く関心のないトピックです。だって、誤解を恐れず言えばダチ同士の喧嘩でしょ?
文化的な心理背景について語る前にひとこと言わせてほしい。
「有名人なんだから、影響力があるってことをちゃんと自覚して行動しないといけない」という意見は多数、よく耳にするけど、
有名人以前に、1人の人間として感情的になることもあるし、間違えることだってあるし、喧嘩だってしちゃうことあるのに、それが大きく取り上げられてしまって、会ったこともない人たちからあーでもないこーでもないと言われる有名人の気持ち、分かる一般人がいるのかー!!!
ほっといてやれよ。そっとしといてやれよ。当人たちでなんとかするだろうよ。色々思うことあるなら、自分が反面教師で自分のための学びに使えよ。
と、声を大にして言いたいー!!!
(言っちゃったーーー!)
ちなみにね。
私は、どっち派でもないです。
暴力はいかん。けど行き過ぎたジョークも好かん。
でも仲良い友達なんでしょ?これを機にお互い学ぶことが何かしらあるのでしょう。
私が興味を持った理由はこれ。
私の知り合いが書いたやつだったから、唯一読んだんだけど、私の持ってる観点とはまた違っていておもしろかった。
ざーっくりいうと、
日本ではスミス擁護派が多く
アメリカではスミス反対派が多い。
日本では、奥さんを侮辱されたウィルスミスの気持ちに共感する声が多く、
アメリカでは、何があっても暴力はダメ。それに、アメリカではワンチャン受け入れられるギリギリラインのジョークだった。
という内容だったのだけど、
どちらに肩入れしたくなるか(もしくは反対したくなるか)は、心理的にどのような背景があるから、スミス擁護派 vs 反対派という傾向が国ごとに分かれるのか?という観点が入るとおもしろいのでは。と思った次第です。
日本に残る「本音と建前」「恥」の文化
本音と建前
私が日本にいると、とても窮屈な感覚になる理由の一つに「本音と建前」があります。
行きたくない飲み会に誘われたら、なんと言って断るでしょうか。
ちょっとその日は都合が悪くて?
奥さんに叱られるので?
ほんまかいな。
「行く気分じゃないから帰る。」
こうやってストレートに伝える人、います?
いないとは言わないけど、ほんとにごく少数だと思うんですね。
飲み会の断り方じゃなくたって、至る所で、本音以外の「建前」でコミュニケーションをする。これが日本の「当たり前(集合意識)」だと感じます。
このことが、よくある陰口文化にもつながっていると私は思っているのですが、本人に伝えられない悶々とした気持ちを、わかってくれる第3者に話すんですね。それも、自分が悪く思われないように、オブラートに包んで、「あの人って、すごくユニークな人だよね」「分かる〜。面白いですよね」とか言って、絶対に「嫌い」とか言わない。陰湿だな〜って思いますね。面倒くさい。
こういうふうに、建前コミュニケーションばっかりやっていると、それはそれで、本音が居場所を無くしていく。それが、誹謗中傷として有名な人が何かやらかした時に、ストレスの吐け口として矛先が向いたり、今回のウィルスミスを擁護する人みたいに、暴力を助長してまで「よくやった!」と、その相手の感情と共振して、あたかも自分が感じていたことを誰かが代わりに表現してくれました!と言わんばかりに、第3者の立場から動くことなくヤジるんだなぁー。と思ってみていました。
恥
もう一つは「恥」の文化。
「本音と建前」でコミュニケーションしている理由でもあるかもしれませんが、感情を表に出すことに対しての「恥」や、「ポジティブでない何か」が明らかになることへの「恥」もしくは「恐れ」が、日本では非常に強く、強いがために、とても敏感になっているように感じます。
うちの親は、この「恥」がとても強く、私にとってはいつも違和感でした。
家では毎日、大声を荒げて大げんかして、こどもたちが泣き叫んでいる家庭なのに、1歩外に出ると、お隣さんのママと、「あら〜!こんにちは〜!(ニコニコ)」と普通に楽しそうに会話をする。家では、ここが出来てない!だの、勉強しろ!だの、ぶつぶつぶつぶつ永遠に叱られるのに、授業参観では「私なーんにも見てないから、勉強してるかすら把握してなくて〜」と大嘘を叩く。
「他人にどう思われるか?」が、大事になり過ぎて、「自分がどう思っているのか?」とはかけ離れ、建前コミュニケーションでしか人と関われず、自分の中にある「恥」を隠すことに必死で、自分の中にある「恥」と対峙しようとはこれっぽっちも思っていない。
全員そうだと言っている訳でもないし、日本人のいいところだってもちろんある。こういう傾向が強いと私が感じているだけなのかもしれないけど、でも私には日本人ってそういう側面がある。と映ってる。
アメリカは、人権に関わる問題を「タブー」にして触れようとしない
対して、アメリカにも疑問に思う点がある。
特に、人種差別問題がホットになるといつも思うのだけど、人権に関わる問題に対するアメリカの対処方法は、いつも「禁止」するやり方だなぁと思ってみている。そして、それが私にとってはすごく違和感だった。
何年か前に、"Black lives matter"という、「黒人の命は私たちにとって大切だ」と、たくさんのデモが起こったし、社会現象化した。
「黒人を差別してはいけない」「すべての命は尊い」
そういうメッセージ性の強いスローガンだったけれど、それって全然「違いを受け入れようとしてない」じゃん。ってすごく思ってた。
アメリカは、人種差別問題が起きると、「差別そのものを無くそう」とし、「差別に関わるものを排除しよう」とする動きが強まる。
いや、その前に、差別…以前に、「私たちはみんな違ってる」という違いを認識するところから始めようよ…といつも思うのだけど、人種差別問題の根底にある、「違いがあるという事実を直視し、受け入れる」というプロセスが完全に抜け落ちていて、排除して解決しようとする。
また、それが良いこととして捉えられるし、声を上げることで自分の正義を証明する自己肯定感UPグッズ的な感じで、あたかもそれを自分の意見です!と言わんばかりに主張するのも、「うげー。」って思う。いや、私がそう感じてるだけ?
今見てる『13の理由』もそうだけど、学校生徒の誰かが自殺した事件が起きると、そのことについて校内で話すことを禁じるという対処法が取られたり、やっぱり、排除することで解決しようとするんだなというのが私の見解。
人権問題に対して、とても敏感なだけに、そこに触れないように触れないように…腫れ物を触るかのような対処法を施行し続けているように、私には見える。
暴力に対しても同じことが言えるのでは?と、今回のことで思った。
ウィルスミスが暴力を振るった。という事実だけを見て、「暴力は絶対にいけない!」と、暴力=いけないこと(タブー)=排除せよ!という単純構造しか、果たして持ち合わせていないのだろうか…。
確かに暴力はダメだけど、そういう単純な話でもないと思う。
そして、この事件が起きた直後、司会進行役のクリスは何事もなかったかのように司会を務めたようで、そのことに対して、さすがプロだ。という意見もあるでしょうが、この「排除する」やり方しかないのか?という私の視点からすれば、一言くらい、「敬意や配慮が足りなかった。すまなかった。」と、ウィルスミス夫婦に対する謝罪の言葉があってもよかったのでは?と個人的には思いました。(あったのかな?)
色々思うこと書いてみましたけども。
でも私の立ち位置は最初と変わりません。あんまり興味がないのです。笑
ケンカしたなら、仲直りしなよ。と思うくらい。
他人のふり見て我がふり直せ、でしょ?
ウダウダ言ってる暇あったら、自分の態度を見直そう。私はそう思いました。