13 Reasons Whyを見て感じた社会問題の根源
最近英語のインプットが足りないな〜。と思って、ずっと気になっていた "13 Reasons Why" というNetflixオリジナルのドラマを見始めたのですが、一気にシーズン1を見終わりました。
とてもユニークなドラマだなと感じたのは、まず最初にキャストの自己紹介と、この作品の目的が明確に話されていることです。
ドラマの中には、レイプや自殺といった、社会的に問題とされていることがたくさん取り扱われていて、必要なサポートを受けることを斡旋するためのサイトも設けられていることが、最初に定義されています。
ですが、私がシーズン1を見て感じたのは、事象の裏にある「本当の原因」や、その原因(または問題)をどのように取り扱い、解決すればいいのかという、具体的な「解決策」が提示されていないということです。
また、内容として、とてもアメリカライクで、日本で起きている問題の在り方とはまた異なる、アメリカの文化背景がある作品にも感じました。今回、この記事を書くにあたって、一応アメリカ現地の人たちの反応を検索して読んでみました。ですが、この作品がいいか悪いか?という、作品としての感想コメントが多く、実際このドラマに共感している人がどの程度いるのかは分かりませんでした。
いろんな感想があると思うのですが、私がドラマを見ながら焦点を当てていた点は、「心の取り扱い方」でした。
なので、今回のレビューの中では、この「心の取り扱い方」について、あくまで私一個人の意見を書いてみようと思います。
※誤解のないように先に断っておきたいのですが、誰かが悪いとか、制度が悪いとか、責める意図は全くなく、ただ自分にできることは何かをあらためて言葉にするために、あえて触れにくい話題に切り込んだというのが私の真実です。
ドラマ中で提示されている問題
ドラマを見ていないと、なんの話かわからないと思ったので、ざっくりどんな問題がドラマ中に提示されていたのか、挙げてみる。
・自殺
・レイプ
・誹謗中傷
・いじめ(オンライン/オフライン)
・カウンセラーの技量不足
・親の在り方
・学校の体制
このどれにも当てはまる原因であり、また改善の鍵になるのが、心の取り扱いだと思った。
まずは、提示されている問題のもう一歩踏み込んだところにある原因に、そしてその後に、私たちの在り方をどう見直していくべきか、という順に書いていきます。
体裁 vs 信頼
このドラマの中でフォーカスがあたっているのは、主に子どもたちだけど、私はあえて、まず大人に焦点を当ててみたい。
ドラマの中で、子どもたちは誰1人として、親にも先生にも、大人に真実を告げたり、信頼して相談したりするというシーンはない。
私自身も、いじめられていた時に親にも先生にも、全く話してこなかったので、なんとなく子どもたちの気持ちが分かるなぁと思いながら観ていた。ドラマの中では、「親を守りたいから言わない」という表現がされているけれど、相談された時に親があれこれ心配するのが目に見えているから、親を心配させないためにも言わない、という気持ちが働くのかもしれない。
ドラマの中に限った話ではなく、うちの家庭なんてまさにそれだったのだけど、「体裁」をすごく気にする家だった。
子どもが行儀悪ければ、親の躾が悪いと思われるのが嫌だからきちんとさせたり。
本当は離婚したいほど仲が悪いけど、子どもが結婚するときに体裁が悪くなるから離婚しないとか。
いやまぁ、愛あってのことだということも理解した上で、それでも子どもにしてみたら、「自分が今何か重大なことを相談したら、体裁を整えにいく親」に何か相談したいと思えるだろうか。というのは随分怪しいところだと思う。
別に親を責めるつもりは全くない。親だって、そのまた上には親がいて、どうしていいか分からなかったはずで、親だって困っていて助けが必要なうちの1人だと思うから。
だけど、社会問題の原因という意味では、大人の世界にたくさん存在する、「体裁」が邪魔をして、本当に大切なものより体裁を優先してしまう、せざるを得ない(と感じる)ことがたくさんあるのもまた本当なんじゃないかと思った。
残念なループなんだけど、普段から体裁を優先してしまっていることが、いざというときに、大人よりずっと正直な子どもたちが、信頼して話せるかどうかをすでに左右してしまっているんじゃないか。そう思った。
事実や真実ではない世界
ドラマの中で、提示されている問題の一つに、"cyber-bullying"がある。
オンラインでのいじめのことだ。
ネットに出回った写真や情報は、基本的に根絶することはできないし、その情報が正しいかどうかではなく、受け取った人によっていくらでも課題解釈することができる。そういうネットの性質を、知ってか知らずか利用して、誹謗中傷や、誰かの恥ずかしい姿がおさめられた写真が勝手にネット上に流される。
親世代からすると、自分達が子どもだった頃には存在していなかったツールを使って、子どもたちがコソコソとオンラインでやっていることなので、気が付かなかったり、それが一体どういうことなのか理解できないというのもあると思う。
私がここで一番問題だと感じるのは、誰も真実をみようとしていないところ。
事実と真実は別物だと思う。
事実というのは、証拠が取れるような、現実的にどうだったのかという「事実」であって、そこには誰の色付けもない。
真実というのは、その人その人が個人的に持っているもので、同じ事象に対しても人それぞれ感じ方が違うように、真実というのは「その人にとっての本当」のこと。
日本でわかりやすいのが、マスメディアだと思う。
メディアが言ったことの多くは、一部分の切り取りでしかなく、本当に伝えたかった当事者の言葉が捻じ曲げられて報道される。そして、捻じ曲げられていることや、本人の本当のことを知りもしない視聴者が、あーでもないこーでもないと想像を繰り広げ、批判する。
これと全く同じ構図が、子どもたちの学校生活で起きている。
そう。事実も真実も放って置かれ、そこから派生する想像や妄想、誹謗中傷、そんなものが生み続けられている。
言葉に出来ない感情
時に、自分が何を感じているのか分からなかったり、またそれを言葉にするための言葉が見つからなかったりする。
すると、どう自分を表現していいかわからず、どう助けを求めたらいいかわからない。そしてこういう複雑な気持ちを(表現する術を持たないがゆえに)理解してもらえるはずもなく、置き去りにされていく。
私自身が子どもの頃、大人たちが世間体を大切にするあまり、全然心が通い合う本当のコミュニケーションをしていないことが気持ち悪く、なんでそんなことを続けていられるのか不思議で仕方なかった。
まあまあ成績も良かった私をダシにして、「うちの子なんて〜」と母が言うたびに反吐が出そうだった。
けどそれを言ってもわかってもらえなかった。住んでる世界が違いすぎた。
私からすれば、私は好きで勉強していたし、自分のためにやっていたことだったから、褒められればまあ嬉しいけれど、「ありがとう」で終わる。
母の世界では、もっと複雑なことが起きていた、と今は分かる。
他のお母さんからの嫉妬に耐えるためには「そんなことない」と否定するしかないと感じたり、でも自分の娘が誉められる優越感を感じたり。
自分のことではないのに自分が誉められているような気分に浸っているくせに否定している母をみて、私はすごく腹を立てていた。
今、パッと思いつく例を挙げてみたけれど、本当に、どういう構図でどんな心情がどのように動いていたから腹を立てていたのか、当時は言葉にすることが出来なかった。
子どもって、大人が思う何倍も繊細に、違和感をキャッチし、複雑な感情を持っている。
大人よりも純粋な分、不純なものを感じると葛藤する。
そして、葛藤を持ちきれず、そのフラストレーションが自分もしくは他者に向かう。それが時に、暴力的な何か(いじめなど)となったり、引きこもりとなったり、さまざまな形で現れる。
問題なのは、そう言う複雑な「心」を、大人がどう扱ったらいいか分からず、なかったことにしたり、うまくいっている何か(世間体が取り繕えていることや、仕事での業績が認められていることなど)にしがみつくことで、直面しようとしていない姿勢が、結果、子どもたちが心に葛藤を抱えたときに、自分にも取り扱えない感情をどう取り扱えばいいか見せることができず、自分達と同じように、なかったことにするやり方か闘うやり方しか術を持ち合わせていない点にあると思う。
大人が知るべき心の取り扱い
何かあった時に、自分の子どもを助けたいと思う親がほとんどだと思う。
学校でいじめがあったら、なんとかしようという気持ちが湧く先生だって多いと思う。
でも残念ながら、そんな大人たち自身が、救われていないことが多い。
大人にも親がいて、その親も完璧ではない。だから、同じように感情をぶつけられたり、成績からは分からない本当の自分(の本質)をみてもらった体験がなかったり、悲しい時に寄り添ってもらえなかったり、そういう残念な体験がたくさん積もって出来上がってしまっている。
でも私は、向き合う気さえあれば、今からでもそれは溶かしていくことが出来ると思っている。
大人たちが、自分の気持ちをどう取り扱えばいいかが分かれば、子どもたちとの関わりの中で、それを体現して見せてあげることができるし、子どもたちと、本当の信頼関係を築くことだって出来る。
私自身も、子どもと関わる現場に定期的に入っている。
以前、保育施設で働いていた頃は、先生たちの体裁と、保育士の「こうあるべき」に押し潰されて、子どもの心を感じて寄り添うような余裕は持てなかった。
けれども、それでも辞める時、あるお母さんが「なお先生は、月齢や保育の基準に当てはめようとするのではなくて、この子として見てくれていたことに感謝しています」という言葉をくださったことを今でも覚えている。
今は、里親さんのお宅に行って、子どもと密に、実の姉か、近所のお姉さんみたいなポジションで遊んでいるけれど、その瞬間にも自分の心をモニターし続けている。
監視している訳ではないけれど、「この子たちといて、私はどんなふうに感じるのか」をただ感じ続けている。
時には、お兄ちゃんが妹を責めるようなシーンにも遭遇するけれど、私は黙って、「あっ、痛い」とチクっとする感覚を感じて見ている。すると、怒っていたお兄ちゃんも、怒りを妹に投げつけてしまった罪悪感をその直後に感じているのを感じる。
それを見て私は、優しくなれなかった自分に罪悪感を感じるくらい本当は優しいその子の本質を感じるのだけど、そうしていると、ことが大きくならずに平和に戻っていく。
ドラマの中で、自殺をした女の子は、死んだ後に周りの友達や大人たちに、ものすごく大きな衝撃と影響を残した。
感情や、私たち一人ひとりの言動は、周りにものすごく大きな影響がある。そして、影響を受けた人からまた次の人へと、この波紋は続いていく。
この影響が、私たちのネガティビティからではなく、私たちの愛や優しさからの連鎖だったとしたら…。
今目の前の人の本質を見ようとし、体裁ではなく、本当の自分がハートで交流すること。自分に対しても他者に対しても、自分の持っている愛を使うこと。自分の感じていることに責任を持ち、誰のせいにするでもなく、心が平和にいられる方向を模索すること。
今隣にいる人に、目の前の人に、そうすることが出来たなら、その波紋がもたらす影響もまた大きいと思った。
何よりまず、傷ついていないフリをするのをやめて、自分自身を救おう。
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