面白いね、アフリカへ協力隊として来るまで、10年をふりかえる。
twitterで#10年をふり返るというタグが流行っていたので私もやってみる、34歳最後の夜。
24歳 松葉杖をつきながら始めた就活で、
たまたまカフェやBarのデザイナーになる
25歳 カフェやBarのデザイナー 仕事が終わらない
26歳 カフェやBarのデザイナー 仕事が終わらない
27歳 カフェやBarのデザイナー やっぱり仕事が終わらない/
東日本大震災被災地とカンボジアでボランティア
28歳 ドイツの国際芸術祭ドクメンタへ行く為、仕事辞める/
フリーランスという名の人生ぶらぶら期
29歳 雑貨デザイナー 自分の審美眼を試す面白さ
30歳 雑貨デザイナー 雑貨業界の闇を知る
31歳 雑貨デザイナー やっぱり英語が面白い
32歳 オーストラリアで語学留学の傍、先住民やエコビレッジ、
宗教のコミュニティーを訪ねる1年の旅
33歳 オーストラリアの体験談を各地で話す/ パラレルワーク
34歳 ジンバブエで海外協力隊としてグラフィックデザイン教えてる
何者にもなれない私。
24歳の頃、美大を卒業する時。
素敵な人になっていたかったけど、それはあまりにモヤモヤしていて、結局、私は、何者にもなれずにいた。
憧れていた現代アートの街、ニューヨークを訪れても、期待していたようなウォーホルの生きていた60年代のような鮮烈な刺激は無かった。
帰国してすぐ、二週間の間に2回原付で交通事故に遭い、人生で初めての松葉杖生活。当時の恋人は、なんと同時期にヤクブーツに手を出していて、すぐに別れた。友達にも甘えることができなくて、寂しくて辛い思いをしていた。よりにもよって当時住んでいたのはエレベーターの無いボロアパートの2階。涙をポロポロこぼしながら、松葉杖で上り下りしていた。(ああもっと友達の誰かに素直に甘えればよかったな。)しかも隣の部屋はアル中のおじさんが住んでいて、よく大きな独り言を言っていた。私は当時タバコも吸っていたけど、松葉杖で買いに行くのはあまりに辛く、これを機会にやめた。
二回の事故で治療費やタクシー移動により立て替えていた出費は、ゆうに50万円を超えていた。「ああ、ちゃんと社会に出て働かないとヤバいんだなあ」と危機感が募り、松葉杖をつきながら就職活動を始めた。この時4回生の4月だから、周りよりずっと遅いスタートだった。
「就活に100万かけろ」
こんなことを言っている教授がいた。
スタートも遅いし、自分が何をやりたいかもわからなかったし、就活なんてダサいと思ってフリーターになろうとしてたし、自分に内定をくれる会社なんて無いと思っていた。
「一体、将来何になりたいんだ?」「どこに就職するんや?」と図星をついてくる父の質問にもうんざりしていた。
「就活に100万かけろ」を「どこでもいいから100社受けろ」に変換することにした。
100社受けてダメだったら、父も「仕方がない」と納得するだろうと思った。
和菓子職人からエンジニアまで、なんでもござれ。
就活開始時期が遅かったので、もうなんでも受けてやれと関西から関東まであらゆる会社説明会に行った。職種は、和菓子職人からエンジニアまで。
お金、時間、職種に糸目をつけなかったので、50社ぐらい説明を聞きに行った。面接に遅刻したこともあるし、圧迫面接も受けたし、だんだんと失敗することが怖くなくなった。
最終的には、面接前にカラオケ行って発声練習したり、書類を出す封筒に貼る切手選びにこだわったり、面接を楽しみ始めた頃、内定はポロっと出た。
その時の社長は「お前、明日から来い!」と話のノリで冗談めいたことを言ってたけど、冗談ではなく、面接会場から駅までの帰り道に、内定の電話が携帯にかかってきた。ちょうど24歳の誕生日だった。
結局2社から内定をいただいた。
そこから、怒涛のデザイナー修行が始まった。
友達や彼氏は裏切るけど、仕事は裏切らない。見返りを求めたっていい。
そんな執念を燃やし、残業しまくり、悔し涙をたくさん流してきた20代だった。自信が無くて、「デザイナーです」と名乗るまで本当に時間がかかった。
でも、本当にしょうもない元恋人のおかげで、交通事故のおかげで、
「デザイン」という新しい引き出しを20代を通して、自分に作ることができた。そして今、アフリカのジンバブエの地で
デザインを教えている。だから、人生は、おもしろい。
ハッピーバースデー、私!