サザンオールスターズと夏フェス
サザンが夏フェスのステージから去る、という事件
サザンオールスターズが今年9月23日に開催される「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2024 in Hitachinaka」への出演を最後に夏フェスから"勇退"することが発表された。
J-POPシーンのトップランナーとして常にシーンを牽引し続けてきたサザンオールスターズ。近年では桑田佳祐のソロ名義での出演も含め度々夏フェスのステージに立っており、その度に出演そのものが"事件"の様相を呈し、老若男女問わず音楽ファンを興奮の坩堝へと誘い続けてきた。
そんなサザンオールスターズの夏フェスからの"勇退"報道は音楽ファンだけでなく国中に大きな衝撃を与えた。ファンはもちろん、フェス参加者や音楽ファン、ソーシャルからワイドショーに至るまで大小様々なリアクションが寄せられた。
サザンオールスターズの進退についてこれほどまでの騒ぎとなるのは、08年の無期限活動休止発表や10年の桑田佳祐食道がん罹患以来だろう。”最後“”勇退”“卒業”という決してポジティヴではないフレーズが国民的ロックバンドであるサザンから発されたことも相まって、想像以上にセンセーショナルに届いてしまった。
一方で"最後""勇退""卒業"というフレーズが先行するあまり、サザンが夏フェスというステージをどのように歩んできたかについて言及したメディアや言説は少なかったように思う。そこで本稿ではサザンオールスターズの夏フェス出演を振り返りながら、サザンが夏フェスとどのように関わってきたのかを考察すると共に、サザンの変遷、そして夏フェスの変遷を辿る。
1979年8月「JAPAN JAM'79」
サザンオールスターズのオフィシャルサイトにはこれまで出演したイベントの記録がセットリストと共に掲載されているが、ここに掲載されている情報は1993年以降の情報のみ。それ以前の情報については30年以上前ということもあり、インターネットや書籍による断片的な情報しか残されていない。そんな中で特に多くの関連書籍で言及されているのが、サザンがデビュー当時に出演した夏フェス、1979年8月「JAPAN JAM '79」だ。
現在「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」も主催するロッキング・オン社がゴールデンウイークに同名の音楽フェスを開催しているが、こちらは無関係。開催地は神奈川県・江ノ島の特設ステージ。The Beach Boys、Heart、Firefall、TKOという洋楽バンド(それも音楽ジャンル的にはかなりバラバラ)が多数ブッキングされる中、当時『いとしのエリー』をリリースしたことで『勝手にシンドバッド』の「目立ちたがり屋の芸人」的パブリックイメージから脱却し、良質なポップスを鳴らすバンドとして評価が高まりつつあったサザンが日本を代表するスペシャルゲストとして出演することとなった。彼らがゲストバンドとしての出演であったことは当時のパンフレットでも確認することが出来る。( 「ロックオンキング」販売ページ掲載の写真参照 2024/07/09 閲覧) https://rockonking.shop-pro.jp/?pid=161991910
日本におけるロックフェスの草分けとされるFUJI ROCK FESTIVALすら当時は影も形もない中、アメリカの伝説的な野外ロックフェスティバルである「ウッドストック」を引き合いに出しながら開催されたJAPAN JAM’79には、横浜に寄港したミッドウェイ空母から米兵などが数多く参加しており、あらゆる意味で現在のロックフェスとは雰囲気が異なることが文献などからも感じ取ることが出来る。湘南エリアに住みながら洋楽への憧れを募らせた桑田にとってこの洋楽メインのフェスティバルへの出演は感慨深いものがあったのか、著書『素敵な夢を叶えましょう』では自身の野外ライブベスト3に挙げている。最も、それは自身の演奏・パフォーマンスの出来云々よりも、その青春性や感動によるものだと桑田は記している。ミドルバラードの『恋はお熱く』がオーディエンスに全くウケずに半ばブーイングまで巻き起こったこと、『勝手にシンドバッド』が米兵たちやThe Beach Boysのスタッフにもウケていたことが上記した『素敵な夢を叶えましょう』、そしてこちらも桑田の著書である『ポップス歌手の耐えられない軽さ』や原由子の著書『あじわい夕日新聞』などにも記されている。桑田にとってこのJAPAN JAM、とりわけBeach Boysとの共演は鮮烈な記憶なのか、2023年にサザンオールスターズとして開催した「茅ヶ崎ライブ2023」の客入れBGMにもBeach Boysの『Surfer Girl』を選曲している。もちろんこの選曲の意図というのは選曲した人間(桑田佳祐、あるいはサザンメンバーによる選曲かどうかも定かではない)にしか分からないことではあるが、上記したフェスへの出演なども踏まえた文脈を感じさせる選曲であったことは間違いない。サザンオールスターズの史実というよりはむしろメンバーのパーソナルや感情において欠かせない、夢のような思い出の夏フェス出演がこのJAPAN JAM '79なのだ。
翌年もJAPAN JAMは場所を横浜スタジアムに移して開催されたものの、これ以降開催されることは無かった。サザンのデビュー当時から夏フェスに類されるイベントは散発的に開催されていたものの、2000年頃までは一過性の文字通り"お祭り"としてしか開催されず、故に現在のような一種の"カルチャー"としては定着しなかった。これはフェス情報サイト「Festival Life」の編集長であり、「フェス旅 ~日本全国音楽フェスガイド~」などを著書に持つ津田昌太郎も自身が出演したPodcastで語っており、本邦における当時のフェスカルチャーを取り巻く空気感をこの「JAPAN JAM」の成り立ちと終わりからも感じとることが出来る。
1985年6月「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」
上記したJAPAN JAM'79がサザンオールスターズにとっての青春性の象徴であれば、「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」はサザンオールスターズが国民的スターとして確固たる地位を築き上げる、その轍の象徴と言えるだろう。1985年に開催されたこのフェス(当時はフェスという言葉もなく”ジョイントコンサート”という言葉が使われていた)は、当時音楽シーンの第一線で活躍するアーティストが一堂に介す、現在の音楽フェスと同様の形式で催された。当時といえば海外ではBand Aidによる『Do They Know It's Christmas?』やUSA for Africaによる『We Are The World』など、スーパースターによるチャリティプロジェクトがひとつのムーブメントを形成していた。これらの各チャリティプロジェクトに触発され開催されたのがALL TOGETHER NOWであった。一方でJAPAN JAM'79 同様、引き合いにウッドストックの名前を挙げた宣伝展開がなされていたという話もあり、国内における大規模フェスの認知、ひいては実態そのものがこの時点で未だにウッドストックレベルで止まっており、その後のFUJI ROCK FESTIVALに至るまで大きなゲームチェンジが起きなかったことをここから読み取ることが出来る。事実、このALL TOGETHER NOWについても開催はこの一度きり。JAPAN JAM'79の項でも記した通り、この頃の音楽フェス特有の一度きり故の特別感と定着度の低さはALL TOGETHER NOWでも健在であった。
そんなALL TOGETHER NOWの出演者は一度きりならではの”お祭り”に相応しく、錚々たるメンバー。吉田拓郎やオフコース、THE ALFEEにアン・ルイス、ラッツ&スター、さだまさし、イルカ、南こうせつ、チェッカーズ。更にははっぴいえんどやサディスティック・ミカ・バンドの再結成。そして佐野元春のステージにサザンオールスターズがサプライズで登場するという流れはフォークソングからニューミュージック、ロックへと変遷していく70年代〜80年代の邦楽シーンを1日を通して総括するような感慨の強いイベントとなった。
イベント開催当時のサザンオールスターズといえばアルバム『KAMAKURA』リリース前夜。このアルバムの”国民待望の2枚組”というキャッチコピーが示している通り、『勝手にシンドバッド』から『いとしのエリー』を経て少しばかりの停滞後に『チャコの海岸物語』で再びシーンの最前線に立ったサザンオールスターズはこの時点で既に国民的バンドとしての道を歩みだしていた。『KAMAKURA』はサザンオールスターズ史上でも指折りの名盤として数えられ、当時としてはあまりにも長大な1800時間というレコーディング時間に加え、最新鋭のテクノロジーを駆使して制作された意欲作。そんな『KAMAKURA』の制作が佳境の中、イベント出演とその用意に長い時間を割けなかったこともあっての佐野元春のステージへのサプライズ出演だったと推察される。また自身の持ち曲としては『夕方 Hold On Me』の披露にとどまり、その他は洋楽のカバーが中心となったのも、同様の理由ではないだろうか。余談だが、本イベントが開催された国立競技場は、サザンオールスターズのレコーディング拠点である青山・ビクタースタジオの眼前である。具体的にそうした記述や文献があるわけではないが、イベントの合間にビクタースタジオへ行ってはレコーディングの詰め作業を行う桑田の姿は想像に易い。例えばこれがもし国立競技場ではなく、JAPAN JAM'79のように江ノ島での開催であったら。もしくは後年のROCK IN JAPAN FESTIVALよろしく茨城県での開催であったら。きっとサザンオールスターズのALL TOGETHER NOW出演は叶わなかったかもしれない。
ALL TOGETHER NOWから3ヶ月後にリリースされた『KAMAKURA』には、この日共演した吉田拓郎を名指してメッセージを届ける『吉田拓郎の唄』が収録されている。これはこの年での引退を示唆していた吉田拓郎への強烈な叱咤激励であり、吉田拓郎への強い憧れと共鳴が結果的に若かりし桑田から過激な言葉を引き出した楽曲であった。本楽曲がいつレコーディングされたのかを知る由はないが、リリース3ヶ月前ということはアルバムもほぼ完成形であったと推察され、この『吉田拓郎の唄』もまた完成していたと思われる。そんな楽曲を作る傍らでイベントで共演した桑田の心中はどんなものだったのだろう。
またこの日共演した松任谷由実、THE ALFEE、チェッカーズ、アン・ルイスといった面々とは、翌年桑田が中心となって企画された音楽番組「メリー・クリスマス・ショー」でも共演している。特に松任谷由実に関しては番組に際して『Kissin'Christmas(クリスマスだからじゃない)』という楽曲を共作しており、その後2023年には37年もの歳月を経て新たにレコーディングされ正式にリリースされた。また2018年の紅白歌合戦でのサザンオールスターズと松任谷由実のステージは平成最後の紅白歌合戦、その象徴として現在も語り継がれている。そしてこの日ステージを共にした佐野元春に対して桑田は、現在に至るまで同世代(同級生)のアーティストとして常にリスペクトの精神を掲げており、2022年には『時代遅れのRockn'Roll Band』をコラボレーションで制作している。総じて桑田佳祐・サザンオールスターズのその後の他アーティストとの親交にも大きく影響を与えたのがこのALL TOGETHER NOWというイベントであったことは間違いないだろう。そういった意味でもまた、本イベントはサザンオールスターズにとって、自身がアーティストとして躍進する、その象徴のようなイベントであったのだ。
本イベントに関しては実際に当時足を運んだ方の振り返りnote記事があるのでぜひこちらを参考にされたい。
2002年8月「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002」
現在に至るまでサザン、ソロ併せて計6度出演(出演キャンセルを含む)を重ねてきたROCK IN JAPAN FESTIVALとサザンオールスターズの蜜月はこの年、桑田のソロ出演から始まった。
今でこそ国民的レジャーとして定着した夏フェス、その中でも四大フェス(他にはFUJI ROCK FESTIVAL、SUMMER SONIC、RISING SUN ROCK FESTIVALなどが挙げられる)として圧倒的な知名度と集客力を誇る老舗フェスであるROCK IN JAPAN FESTIVALだが、当時はまだまだ3年目。音楽フェスそのものもまだまだ現在のような”国民的レジャー”のような受容はされておらず、ディープな音楽ファンの集う(現在と比べれば)アンダーグラウンドなイベントであった。
一方当時の桑田佳祐はサザンとして『TSUNAMI』『HOTEL PACIFIC』ソロとして『波乗りジョニー』『白い恋人達』のスマッシュヒットを立て続けに叩き出した直後であり、なおかつアルバム『ROCK AND ROLL HERO』のリリース前夜。より幅広い層にリーチしたいロッキング・オン社の現在に至るまで続く思惑と、ALL TOGETHER NOW以降、あまり出演してこなかったフェスティバル形式のイベント、それもロックフェスに、自身の最新型であるロック色の強い楽曲で挑みたい桑田佳祐の思惑が重なっての出演という部分も少なからずあったのではないだろうか。同日にはYUKI、BUMP OF CHICKEN、KICK THE CAN CREWといった当時既にポップス、ロック、ヒップホップシーンにおいて重要な立ち位置の存在となっていたアーティストで、現在もシーンを牽引し続けているアーティストたちが桑田と同じROCK IN JAPAN FESTIVAL最大のステージであるGRASS STAGEに登場。桑田佳祐の裏ではLAKE STAGEでNUMBER GIRLが解散前最後のROCK IN JAPAN FESTIVALのステージに立つなど、2002年の音楽シーンにおける重要アーティストたちがひしめき合う中、桑田はGRASS STAGEのトリを務めあげた。
序盤、本編最後、アンコールとライブの要となる箇所には『希望の轍』や『マンピーのG★SPOT』、『HOTEL PACIFIC』といったサザンオールスターズ名義のキャッチーでアップテンポ、かつ桑田のパブリックなキャラクター性をわかりやすく表出する楽曲や、ソロ名義の楽曲からも『夏の日の少年』や『波乗りジョニー』『黄昏のサマー・ホリディ』といったわかりやすく夏向けな楽曲も披露しつつ、中盤には翌月にリリースを控えた『BLUE MONDAY』『東京ジプシー・ローズ』『ROCK AND ROLL HERO』といった楽曲をプレイ。合わせて既存曲からも『月』や『真夜中のダンディー』といった楽曲がセットリストに組み込まれ、ブルージーかつディストーションのかかったギターサウンドという桑田のパブリックイメージを裏切るようなサウンドで魅せる構成となっている。現在の音楽の聞かれ方や音楽フェス、とりわけROCK IN JAPAN FESTIVALの受容のされ方と比べると、当時このセットリストがROCK IN JAPAN FESTIVALのオーディエンスにしっかりと受け入れられていたことに、ROCK IN JAPAN FESTIVALというフェスや音楽フェスそのものの体質変化を感じられるだろう。このROCK IN JAPAN FESTIVAL、ひいては音楽フェスそのものの変化が、後述する2017年のソロ出演と2018年のサザンオールスターズでの出演に深く係ることとなる。
この出演の模様やリハーサルの様子は前述したアルバムの表題曲である『ROCK AND ROLL HERO』のミュージック・ビデオで確認することが出来る。当時アルバム発売に係る企画として本フェス出演に伴うリハーサル映像をインターネットで生中継しており、MVで使用されている映像はそこからの引用だと推察される。当時はまだYouTubeも設立される前で国内においてはその後社会問題へと発展するWinnyが開発された時期。決してインターネットでの音楽プロモーション(ましてやフェス出演のリハーサル映像の中継なんてこと)は盛んに行われていたとは言い難く、桑田(というよりこれはアミューズ)のインターネットでのプロモーション活動が如何に素早かったかを示しており、その後のコロナ禍における有料配信ライブなどにも繋がる姿勢が伺える。その一方でサザンオールスターズをはじめとしたアミューズ所属アーティストのDL販売やストリーミングサービスへの参入の動きが鈍かったことを思えば、アミューズが得意としていたのはあくまでもプロモーションレベルのネット展開であり、メインコンテンツのネット展開においては消極的であったことも記しておきたい。
2005年8月「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2005」
2002年の桑田ソロ出演から5年、ステージ数も3つから4つに拡大したROCK IN JAPAN FESTIVAL。その大トリとしてソロでの出演に続きサザンオールスターズとしてひたちなかのステージに桑田は立つこととなった。
同日にはサンボマスター、ASIAN KUNG-FU GENERATIONといった現在もROCK IN JAPAN FESTIVALのステージに立ち続けているロックバンドや奥田民生、エレファントカシマシといった当時の中堅どころ、更には同世代である坂本龍一などがサザンと同じGRASS STAGEに登場しつつ、ELLEGARDENやRADWIMPS、YUIやストレイテナーといった現在も愛され続けているロックバンド・ミュージシャンたちが顔を揃えている。引き続きロックファンが来場者のメイン層でありつつ、一方でサザンの出演前日にはMr.Childrenが同ステージの同時間帯に登場するなど、2002年よりも更に大衆向けなロックフェスに変貌を遂げようとしているROCK IN JAPAN FESTIVALのその後現在に至るまで脈々と続く精神が一層露わになったラインナップとなっている。音楽ライターのレジーは2017年に刊行した著書「夏フェス革命 音楽が変わる、社会が変わる」において、当時のROCK IN JAPAN FESTIVALのブッキングについて以下の通り記している。
ここまでをROCK IN JAPAN FESTIVAL側の事情とすれば、サザン側の事情としては実に22年ぶりのサザン名義でのフェス出演。2002年の桑田佳祐ソロ名義での出演同様、2ヶ月後にニューアルバム『キラーストリート』の発売も控える中での出演となったものの、2002年の出演時の”新曲お披露目ライブ”というプロモーション的な意味合いよりも、サザンオールスターズのロック面、パンクス精神を強調することで当時のROCK IN JAPAN FESTIVALのムードにより接近する意味合いの強い出演であった。その精神を象徴しているのが1曲目に配置された『チャコの海岸物語』だろう。歌謡曲やグループ・サウンズを意識したサウンド、且つリリース当時飛ぶ鳥を落とす勢いで音楽ならずテレビ業界すらも背負っていた田原俊彦の歌い方を真似する”開き直りパロディ”の極地のような桑田の歌唱が印象的な『チャコの海岸物語』を1曲目に披露するというのは一見するとロックとは真逆の思考であるように感じるが、そこには敢えてロックフェスという場所からズラした選曲をするという桑田流の反骨・反体制のパンキッシュな精神が伺える。『フリフリ'65』『マンピーのG★SPOT』『汚れた台所』といったロックサウンドが強調された楽曲の披露や、レッド・ツェッペリン『天国への階段』のカバーから『みんなのうた』へとなだれ込む構成も盛り込まれたセットリストは、当時のROCK IN JAPAN FESTIVALのムードとオーディエンスをしっかりと理解した上での選曲であり、桑田佳祐の持つロック精神の現れだったと言えるだろう。普段はテレキャスターを使用することが多い桑田が、この日はストラトキャスターのギターを使用しているのも彼なりのロック精神の象徴なのではないだろうか。
2006年7月「ap bank fes '06」
サザンオールスターズとしてROCK IN JAPAN FESTIVAL2005に出演した翌年、桑田佳祐はソロでap bank fes'06に出演した。
ap bank fesはMr.Childrenの桜井和寿やサザンオールスターズ・桑田佳祐としても共同制作を行った小林武史、前年にROCK IN JAPAN FESTIVALで同じステージに立った坂本龍一らが立ち上げたプロジェクト「ap bank」による音楽フェスティバル。環境保護や自然エネルギーの促進のためのプロジェクト的な側面が強く、桜井と小林によるBank BandがBand Actを除く大半の出演者のバックバンドを務めるという、成り立ちからその内容に至るまで他に類を見ないフェスティバルだ。当時はまだ開催2年目と歴史の浅いフェスティバルであったが、桑田と同日に出演を果たしたアーティストだけ並べてみても今井美樹、KREVA、BONNIE PINK、そしてBand Actとしてくるりが出演するなど、歴史の浅さなど微塵も感じさせない、世代を超えた豪華な出演陣が印象的だ。後述するThe 夢人島 Fes.にMr.Childrenが出演することが桑田の出演決定におけるプロセスに大きく関わっていることは自明であったが、一方で『奇跡の地球』でも共演したMr.Childrenや80年代後期から90年代中期までメンバー同然の境遇で共同制作を行ってきた小林武史の新しいプロジェクトであるap bankに音楽業界の先輩として華を添えたいという思いも少なからずあったのではないかと推察される。その思いはセットリストからもしっかりと感じ取ることができ、序盤からMr.Childrenの代表曲である『inoccent world』のカバーを披露すると、中盤には『真夏の果実』『希望の轍』といったサザンと小林武史で作り上げた日本ポップスの金字塔的楽曲を披露し、最後には小林武史プロデュースの下で生まれた桑田佳祐とMr.Childrenによるコラボレーションソング『奇跡の地球』で締め上げるこの流れにも、桑田とap bankメンバーの文脈、ひいてはこのフェスへの出演を決めた桑田の思いが感じられるだろう。
現在もインターネット上で閲覧可能なライブレポートによれば、桑田はライブ終盤に以下のような言葉を残している。
その後桑田が制作した楽曲や活動を知った上でこの言葉を読むと、文面以上の特別な意味が感じ取れるだろう。2011年に桑田が開催した東日本大震災の復興支援ライブ『宮城ライブ ~明日へのマーチ!!~』ではアンコールにハーモニカ伴奏で童謡『故郷』を演奏すると、日の丸を背負って『月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)』を歌い上げた。その後も2014年の『東京VICTORY』、ソロとして2021年にリリースした『金目鯛の煮つけ』、そして2023年における『盆ギリ恋歌』『歌えニッポンの空』『Relay~杜の詩』そして茅ヶ崎ライブ2023の開催など、桑田のその後の活動において“故郷”という言葉は一貫して重要なテーマとして据えられている。もちろんデビュー曲が〈砂まじりの茅ヶ崎〉から始まる彼らにとって、故郷への思い、その空気をパッケージングするという姿勢をデビューから一貫して持ち合わせていることは自明であるが、近年一層その思いが増していることはサザンオールスターズの活動を追い続けているファンであれば感じ取っていることだろう。そのキッカケのひとつには、ap bank Fesへの出演があったのかもしれない。
2006年8月「The 夢人島 Fes.2006」
そんなap bank Fes.から1ヶ月後の8月、桑田はap bankと同じ静岡県(といってもap bank Fesは掛川市、こちらは浜松市)にて音楽フェス「The 夢人島 Fes.2006 WOW!! 紅白! エンタのフレンドパーク Hey Hey ステーション …に泊まろう!」を提唱(実質的に主催)した。
その名称こそ前年のツアー中に桑田が「無人島かなにかでライブをやりたい」と語ったことがキッカケだと言われているが、フェスを提唱(公式にはこの言葉を使用している)するキッカケというのは今となってはこのフェスに言及している文献が多くないこともあり、イマイチ判然としない。しかし少なくとも“主催”ではなく”提唱”であったことは、”アーティスト主催のフェス”という概念も定着していなかった当時を象徴しているように感じる。現在こそ10‐FEETによる京都大作戦(2007年スタート)、SiMによるDEAD POP FESTIVAL(2010年スタート)、04 Limited SazabysによるYON FES(2016年スタート)など、大規模なアーティスト主催フェスが毎年多数開催されているが、06年当時大規模なモノで言えばは精々Hi-STANDARDによるAIR JAM(それも2000年のHi-STANDARD活動休止を最後に開催されていなかった)と、上述したap bank Fes程度だったことを思えば、この夢人島 Fes.が日本におけるアーティスト主催による音楽フェスのハシリとなる可能性も秘めていたように思う。もっとも、桑田の”提唱”に対して各アーティストの”賛同”を得て開催された、という”テイ”になってしまった本フェスが、その後のアーティスト主催フェスのハシリとして名前を挙げられることは皆無であり、サザンの歴史を振り返るときもあまり触れられない存在となってしまったことは惜しくも仕方のないことだろうか。
現在ほど音楽フェスがメインストリームとはなっていなかった時代に、決して音楽フェスの常連アーティストではない桑田佳祐、そしてサザンオールスターズが音楽フェスを提唱(主催)するキッカケを無理に見出すとすれば、2002年、そして前年である2005年のROCK IN JAPAN FESTIVALへの出演に刺激を受けた、ということくらいだろうか。とはいえその出演者はROCK IN JAPAN FESTIVALとは一線を画す、当時のJ-POPメインストリームを撃ち抜くような超豪華なラインナップに。実質的な主催アーティストであるサザンオールスターズはもちろん、ap bankで共演したMr.Children、事務所の後輩である福山雅治、ポルノグラフィティ、BEGIN。レーベルメイトであり前年のROCK IN JAPAN FESTIVALでも同日に出演したDragon Ash、プライベートでも親交の深いGLAY。さらには茅ヶ崎出身アーティストの大先輩である加山雄三の出演も決まり、現在では到底再現不可能であろう超豪華なラインナップの音楽フェスとなった。J-POPの第一線で30年近く戦い続けてきた桑田が、現在と比べるとまだまだメインストリームなラインナップとは言い難かったROCK IN JAPAN FESTIVALへの出演を経て、”ロックフェス”ではなくメインストリームど真ん中の”J-POPのフェス”を作り出そうとしたのが夢人島 Fes.であったと推察される。その一方でMr.ChildrenとDragons Ashはそれぞれ直近で出演したap bank Fes、ROCK IN JAPAN FESTIVALの文脈を引き継いだブッキングであり、このあたりから桑田の音楽フェスへの文脈も感じ取れる。
上記した出演陣は全員メインステージへの出演であったが、本フェスはサブステージも用意されており、そこにはサンプラザ中野やFLOWといったこれまた事務所の後輩が多数登場している。特筆したいのはこのサブステージに当時メジャーデビュー前夜であったONE OK ROCKが登場しているという点だ。現在でこそロックフェスに登場すればメインステージを任され、ワンマンライブを開催すればドーム会場が完売、世界各国をバスで回りながらライブツアーを実施するという実力、人気、そしてロックバンドとしての強靭なバイタリティも併せ持つONE OK ROCKの、初めてのフェス出演がこの夢人島 Fesだったのである。この事実が語られることは少ないものの、ONE OK ROCKにとってもこのフェスにとっても、ひいてはサザンオールスターズと夏フェスという視点においても重要な点だろう。その後桑田佳祐は自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』の年末企画である「桑田佳祐の選ぶ邦楽ベスト20」において、2013年にONE OK ROCKの『Deeper Deeper』を、2014年に『Mighty Long Fall』を、2016年には『Taking Off』をそれぞれ選出しており、ONE OK ROCKの音楽性を高く評価していることが伺える。そしてソロ名義でリリースしたアルバム『がらくた』(2017)の1曲目『過ぎ去りし日々(ゴーイング・ダウン)』において〈今ではONE OK ROCK 妬むジェラシー〉と歌っており、これもまた桑田らしいリスペクトだ。桑田が06年当時から彼らを認識していたかには議論の余地があるものの、現在に至るまで脈々と続く桑田佳祐とONE OK ROCKの関係性は夢人島 Fesから生まれているのだ。
メインステージの各バンドの出演前には(桑田による文章だと思われる)前口上が設けられ、各バンドの登場を彩った。
ポルノグラフィティの「R-0才児指定の音楽マニア垂涎の一品」や、Mr.Childrenの「敬称つきのガキ共」という紹介はバンド名をもじった強烈なパンチラインでありつつも、各バンドに対するあたたかいリスペクトを感じる。それでいて自身の前口上では開き直りとも取れる「おいしいとこだけ持ってく」宣言をしつつ、「唄う丘サーファー軍団」と締める平身低頭っぷり。その後の2018年ROCK IN JAPAN FESTIVALにおける登場シーンにも繋がる、桑田佳祐の驕らない姿勢を感じさせる前口上だ。この前口上も本フェスならではのオーディエンスを楽しませるコンテンツであったと言えるのではないか。
またメインステージのアーティスト毎の転換時には桑田がステージに登場し、夏に纏わるカバー曲を披露するコーナーが設けられるなど、1日を通して本フェスの”提唱者”としてバックアップを担った。このコーナーではメインステージでの出番を終えたBEGINやポルノグラフィティといった面々とコラボレーションによるカバー楽曲の披露も印象的だ。Mr.Childrenの出演日にはap bank Fesに続いて『奇跡の地球』をこのコーナーで披露するなど、総じてサザンファンならずとも来場している各アーティストのファンには堪らない仕掛けが施されており、1日をを通して楽しめるフェスティバルになっていたことが感じ取れると共に、他のフェスとは一線を画すイベントとなっていたことが伺える。
アーティスト同士のコラボレーションで言えば、本フェスにおける最大のハイライトとなったのがオーラスで披露された『希望の轍』だろう。サザンオールスターズの演奏をバックに、BEGIN・比嘉栄昇、GLAY・TERU、ポルノグラフィティ・岡野昭仁、Mr.Children・桜井和寿、福山雅治、そして桑田佳祐によって歌い継がれる『希望の轍』は、今もなお語り継がれるべき伝説的な一幕であった。ステージを6人で所狭しと端から端まで走り抜けながらも時折肩を組んだり、ハモリを挟んだり、向かい合いなが歌う6人の姿は、まさしく目には見えない”J-POPシーン”の具象化そのものだった。その後の2018年『NHK紅白歌合戦』における『勝手にシンドバッド』と本フェスにおける『希望の轍』はサザンオールスターズと豪華アーティスト同士の夢の共演という意味において、サザンオールスターズならずJ-POP史においても大きなトピックの2つだろう。この『希望の轍』における出演陣の総登場は後述する『SWEET LOVE SHOWER 2009』だけでなく、このステージに立っていたポルノグラフィティが2013年に主催した本フェスの実質的な後継フェスである『Amuse 35th Anniversary BBQ in つま恋~僕らのビートを喰らえコラ!~』における『アゲハ蝶』でのコラボレーション、ひいてはその後の同フェスにおける『それを強さと呼びたい』にも受け継がれている。このフェスがその後のフェスシーンに与えた影響も大きいということだ。
本フェスを再び開催してほしい、というのは筆者の15年以上に及ぶ切なる願いであったが、前述した通りサザンオールスターズが夏フェスからの”勇退”を発表した以上、叶わないものとなってしまったことには一抹の寂しさを覚える。
2009年8月「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2009」
サザンオールスターズは2008年に無期限での活動休止を発表。2009年は桑田佳祐としてはレギュラー音楽番組『桑田佳祐の音楽寅さん』への出演がメインの活動となったが、その合間には『音楽寅さん』の企画も絡めて2つの音楽イベントに出演している。ひとつは大阪のラジオ番組、FM802が主催する音楽イベント「FM802 STILL20 SPECIAL LIVE RADIO MAGIC」へのシークレット出演、そして本章で取り上げる「SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2009」への出演だ。
SWEET LOVE SHOWERは音楽専門チャンネルであるSPACE SHOWER TVが主催する夏フェス。桑田は2002年にシークレットゲストとして登場し、上述したROCK IN JAPAN FESTIVAL2002同様に『ROCK AND ROLL HERO』の収録曲を中心に披露したが、本格的な出演はこの2009年が初となる。上述した2002年のSWEET LOVE SHOWER 2002は会場が東京・日比谷野外大音楽堂というかなり小規模(3000人程度)の会場であったが、2007年に山梨県・山中湖交流プラザ きららへと場所を移し、大規模フェスへと進化を遂げたばかりであった。現在も続く山中湖でのSWEET LOVE SHOWER、その3年目のメインステージの大トリに桑田佳祐は登場した。
本フェスへの出演で特筆したいのはこの日の桑田佳祐は単なるソロ名義での出演ではなく、”SUPER MUSIC TIGER”というこの日限りのバンドを従えての出演であった点だろう。『音楽寅さん』の文脈も踏まえつつ結成されたスペシャルバンドだが、なによりそのバンドメンバーがあまりにもゴージャス。普段からサザン、ソロを問わず桑田のブレーンとして演奏を務めている斎藤誠(Gt.)や片山敦夫(Key)はもちろん、主にソロ活動でのレコーディングドラマーを務める小田原豊といった桑田佳祐のライブ知り尽くした面々から、東京事変のメンバーであり幾多ものアーティストのプロデュースも務める亀田誠治、ホーン隊に東京スカパラダイスオーケストラから谷中敦、GAMO、北原雅彦、NARGOらこの日ならではのメンバーも登場。さらにサザンオールスターズから松田弘、原由子らもバックアップを務めるという超スーパーバンド。これらのバンドメンバーが当日まで明かされていなかったというのだから驚くばかりだが、ソロとしては7年ぶりの夏フェス出演ということもあり、しっかりとオーディエンスを刺しにいく盤石の布陣で臨んだことが伺える。
バンドメンバーだけでなく、セットリストも盤石。桑田佳祐ソロ、KUWATA BAND、そしてサザンオールスターズの新旧の名曲を全体に配置する桑田佳祐ワークスを注ぎ込むような選曲は、これまでのフェス出演とはまた違う趣。ROCK IN JAPAN FESTIVALと比較するとポップソングとロック調の楽曲が良いバランスで配置されており、特に中盤の『海』〜『栞のテーマ』〜『Oh!クラウディア』の流れは桑田佳祐らしい哀愁の漂うバラードで観客を魅了しようという気概に溢れている。また2008年の無期限活動休止以来(一部とはいえ)サザンオールスターズメンバーが集結してのサザン楽曲披露でもあり、とりわけこのセクションはサザンオールスターズ無期限活動休止のその先の景色を見ているような気持ちにもさせれれた。
終盤にはRCサクセション『雨あがりの夜空に』のカバーから『ロックンロール・スーパーマン ~Rock'n Roll Superman~』へとなだれ込む一幕も。これは同年5月に逝去した忌野を偲ぶ意味も込められた選曲であり、若いバンドマンやオーディエンスが集まるSWEET LOVE SHOWERという場所に忌野清志郎というロックンローラーが存在した証を残したいという桑田の願いを感じる演奏であった。デビュー当時のライブでも何度か顔を合わせていたという桑田と忌野。忌野の葬儀にも夫婦で駆けつけ、『音楽寅さん』の「声に出して読みたい日本文学」企画では樋口一葉の「たけくらべ」を忌野風のサウンドと歌唱に仕上げ、映像においても忌野風のメイクを施すなど、09年の桑田の活動において忌野は重要な存在となっていた。その最たるものがこのSWEET LOVE SHOWERでの『雨あがりの夜空に』のカバーであり、『ロックンロール・スーパーマン~Rock'n Roll Superman~』の披露であった。
オーラスではThe 夢人島 Fesと同じく『希望の轍』を演奏。この日の出演者たちがステージ上に登場する大団円となった。夢人島ではJ-POPシーンのメインストリームで共に戦っているポップシンガーたちが登場した『希望の轍』であったが、この日は次世代を担う後進のバンドマンたちがオンステージ。NICO Touches the Walls・光村龍哉、lego big mole・タナカヒロキ、monobright・桃野陽介、かりゆし58・前川真悟といった若手バンドマンたちが桑田からマイクを託されて『希望の轍』を歌う姿は、前述した2024年の”勇退”発表における「後進に託したい」という思いともリンクする姿であった。
特にNICO Touches the Wallsの光村龍哉は後年、この桑田とのステージをSWEET LOVE SHOWERでの思い出の一つとして挙げている。
それ以外にも光村はサザンオールスターズへのリスペクトを度々各所で語っており、NICO Touches the Wallsの楽曲『妄想隊員A』はサザンオールスターズの『エロティカ・セブン』『マンピーのG★SPOT』から影響を受けて制作したと自身のブログで語っている。
2013年末に大阪城ホールにて開催されたカウントダウンイベント「『Ready Set Go!!』 Count Down Live2013 ⇒ 2014 supported by A-Sketch」ではアンコール的に披露された他出演者らとのセッションに『希望の轍』をセレクトし歌唱している。
桑田のポップシンガーとしての姿は、後進に十二分なほど影響を与えている。光村の存在はその象徴だ。桑田にとってフェス出演は、後進にその姿を示す場所としても機能していた。だからこそサザンの”夏フェス勇退”はフェスシーンならず音楽シーン全体にとっても大きい出来事なのだ。
2017年8月「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017」
2010年以降のサザンオールスターズ、桑田佳祐は激動の時代に突入する。桑田佳祐の食道がん発見と闘病、東日本大震災への支援活動、サザンオールスターズ5年ぶりの活動再開にアルバム制作・リリースと息つく間もないような充実した活動が展開され、この間に桑田は還暦を迎える。
一方この間のサザンオールスターズ及び桑田佳祐の音楽フェスへの出演は皆無。09年のSWEET LOVE SHOWERを最後に、再び桑田佳祐/サザンオールスターズと音楽フェスの間に一定の距離が生まれていたのがこの時期であった。
その裏で音楽フェスは大きな転換期を迎える。2009年にはROCK IN JAPAN FESTIVALでモッシュ・ダイブが完全禁止となり、そこから4つ打ちダンスロックの流行がフェスシーンから発生。
テレビの音楽番組へも4つ打ちダンスロックを売りにしたロックバンドが相次いで参入すると、ロックフェスにおける”入場規制”がバンドの人気を測る指標として使われるようになり、テレビでロックフェスの映像を見る機会もグンと増えた。その結果、これまではある程度音楽を深く聞いているリスナーのためのイベントであったロックフェスの門戸がこれまで以上に大きく開かれることとなった。
長らく3日間開催であったROCK IN JAPAN FESTIVALは4日間開催に日程が拡張。桑田が初めてROCK IN JAPAN FESTIVALに出演した2002年当時はDJ BOOTHを含めても3つしかなかったステージ数が、15年の時を経た2017年には倍以上の7つとなった。
音楽ライターのレジーによる著書「夏フェス革命」によれば、2017年時点のROCK IN JAPAN FESTIVALは動員数だけで比較しても「日本最大級の規模」のみならず「世界有数の規模」にまで成長したと記されている。こういった音楽イベントが“音楽フェス””ロックフェス”と呼ばれることは少なくなり、代わりに”夏フェス”と呼ばれることが増えたのもこの時期だろう。これまでのロックファンや音楽好きのためのイベントという空気が漂白され、海水浴やプール、キャンプやバーベキューといった夏のレジャーに”フェス”が加わり、”夏フェス”は良くも悪くもライトリスナーがレジャーを目的に気軽に訪れる場所となった。
そんなフェスを取り巻く変化を知ってか知らずか桑田はソロとして15年ぶりにROCK IN JAPAN FESTIVALに出演。2日目のトリを務めることとなった。
2002年、2005年同様にアルバム『がらくた』リリース直前での出演となった桑田は、2002年同様アルバム曲から未リリース曲を数多くセレクトしたセットリストを披露。『若い広場』『オアシスと果樹園』といった楽曲はそれぞれ朝ドラ『ひよっこ』、そしてCMソングとしてお茶の間でオンエアされていたものの、未リリースであることも相まってお世辞にも定着しているとは言い難い状況。またリリース済みの最新曲としても『大河の一滴』そして『ヨシ子さん』といったダウナーな感触のある楽曲を数多く盛り込み、合わせて過去曲からの選曲としても『東京ジプシー・ローズ』や『東京』『ROCK AND ROLL HERO』といったアルバム『ROCK AND ROLL HERO』からの選曲が目立ち、桑田のベスト・ヒッツとは乖離したセットリストとなった。『SKIPPED BEAT(スキップ・ビート)』の導入部には自身が中村雅俊に提供した『恋人も濡れる街角』を披露したものの、これも夏フェスに訪れている若いリスナーとってはお世辞にも分かりやすいサービスとは言い難い。2002年のセットリストと比較してもサザン楽曲を排したソロ楽曲のみの構成となっており、全体的に暗い印象のセットリストとなってしまったことは否めないだろう。
2002年や2005年当時はまだまだコアな音楽ファンが集っていたROCK IN JAPAN FESTIVALだが、上述した通り客層はガラリと変化しており、レジャーとして集まっているオーディエンスが相当数を占めている。そんな中、戦慄のピアノサウンドが鳴り響く『東京』や、決して盛り上がるとは言い難い新曲『若い広場』を披露したところでオーディエンスからのリアクションは想像に易い。もちろん私はこの現場にいたわけではない(いたかったが)ので、実際のオーディエンスのリアクションについては知る由もない。こういった普段のパブリックイメージを覆すようなパフォーマンスとセットリストに感銘を受けたオーディエンスだって少なからずいただろうし、当時のツイートなどを探ってみても確かに感銘を受けているオーディエンスがいることは感じられた。
しかしオーディエンスの盛り上がり・反応については誰よりも桑田佳祐が理解しているのか、後日桑田自らこの時のライブについては以下のように語っている。
02年のソロ出演であればいざ知らず、2017年当時において『白い恋人達』の披露は季節柄難しいとしても『明日晴れるかな』や『EARLY IN THE MORNING ~旅立ちの朝~』『100万年の幸せ!!』といった、お茶の間にも浸透しているキャッチーでポップなソロ名義楽曲は数多い。こういった楽曲を盛り込まなかったのは、長年フェスシーンから離れていたことが理由と言わざるを得ないだろう。後述する2018年のROCK IN JAPAN FESTIVALにサザンオールスターズで登場した際の映像はWOWOW、翌年開催のツアーDVDの特典、さらにはYouTubeで2曲も公開するという(単純にサザン周りの映像関係と比較しても)大盤振る舞いな展開ぶりだが、一方で2017年の模様については当時WOWOWなどで放送された映像の他に、公式に作品としてリリースされた映像やYouTubeなどでの映像公開は全く存在していない。オーディエンスの変化を読み違えた桑田の上述した後悔・反省の裏付けと言えるのではないだろか。
もっとも(敢えてこのフレーズを使うが)この”失敗”が翌年のパフォーマンスへの大いなる助走であったと考えれば、必要なプロセスであったと言えるだろう。翌年のサザンオールスターズと夏フェスの歩みの中でも随一のパフォーマンスへのステップ。それが2017年のROCK IN JAPAN FESTIVALソロ出演だった。
2018年8月「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018」
前述した通り、2017年のソロ名義での出演を経た桑田佳祐は、リベンジとばかりにサザンオールスターズとしては13年ぶりにROCK IN JAPAN FESTIVALのステージにカムバック。自身のデビュー40周年という節目の年の活動の軸にROCK IN JAPAN FESTIVALへの出演を組み込む気合いの入れようであった。
その覚悟はセットリストにも如実に反映されており、昨年とは一転したオールタイム・ベストなセットリストが展開。当時新曲の『闘う戦士たちへ愛を込めて』『壮年JUMP』といった新曲群を要所に取り入れつつ、『希望の轍』『いとしのエリー』に始まり中盤には『涙のキッス』『真夏の果実』『LOVE AFFAIR ~秘密のデート~』『ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)』『マンピーのG★SPOT』とサザンらしい代表曲を随所に配置。『せつない胸に風が吹いてた』『My Foreplay Music』という知名度は高くないながらも大衆のイメージするサザンオールスターズのパブリックイメージに寄る楽曲や『栄光の男』『東京VICTORY』といった近年のサザンオールスターズのモードを示す楽曲も組み込みながら、最後は『みんなのうた』『勝手にシンドバッド』で締めるという大横綱ぶり。2017年の出演でROCK IN JAPAN FESTIVAL、ひいては夏フェスそのものの体質変化を肌で感じた桑田は、その体質変化の真ん中を射る…というよりはむしろ”気立てず、特別なことをしない、いつも通りのサザンオールスターズ”でオーディエンスの心を打ち抜くためのセットリストを用意した、と言うほうが適切かもしれない。そんな圧巻のセットリストにロッキング・オン社の代表取締役である渋谷陽一氏も感嘆のコメントを残している。
この年のROCK IN JAPAN FESTIVALは各日メインステージでトリを務めるアーティスト(いわゆるヘッドライナー)の持ち時間を大幅に拡張。前年は60分だった持ち時間が90分となったことで、より音楽性に富んだ”ワンマンライブに近い”セットリストを用意することができたことも、この年のサザンオールスターズのアクトが現在でも語り継がれるようなものとなった理由の一つだろう。このヘッドライナーの大幅な持ち時間の拡張は翌年の2019年まで継続。以降は会場の変更によるステージ数の大幅な変化などに伴い再度50分程度となった。これらは10年代のフェスブームとROCK IN JAPAN FESTIVALの勢い、そして後述するコロナ禍によるフェスブームの停滞とROCK IN JAPAN FESTIVALの“やむを得ない変化”を裏付けているように思う。10年代初頭から巻き起こったロックフェスブームの臨界点がこの2018年であったのだ。
やはりこの年のROCK IN JAPAN FESTIVALのステージにおいて特筆したいのは、普段のサザンオールスターズのライブとは違ったオーディエンスならではの新鮮なリアクションだ。現在YouTubeで公開されている『希望の轍』『みんなのうた』の2曲の映像を見ても感じ取ることができるだろう。
『希望の轍』でハンドクラップではなく腕を掲げ飛び跳ねながら共にシンガロングするオーディエンスの熱量。その熱に刺激された桑田佳祐の「もっと来い!」という煽りを見ることができる『みんなのうた』。
比較対象として本記事の執筆時点でサザンの最新ライブである『茅ヶ崎ライブ2023』を見てみると、『希望の轍』ではオーディエンスはやはり一貫してハンドクラップ。『みんなのうた』で桑田は「大丈夫?」と言いながらかなり穏やかにホース噴水をしている。桑田による「もっと来い!」という煽り文句は、以前こそよく聞くフレーズであったが近年ではなかなか見ることができない。「茅ヶ崎ライブ2023」においては『マンピーのG★SPOT』の演奏に入る前のOvertureでこれに近いフレーズを発しているが、あくまでもエンターテインメント的に作られた台本に沿ったものであり、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018におけるソレとは大きく趣旨の異なるものだろう。これらの傾向は『茅ヶ崎ライブ2023』に限ったことではなく、近年開催された他のワンマンライブにおいても同じことが言える。年齢を重ねる中でライブの在り方が変わるというのは当然のことだが、その一方でこのROCK IN JAPAN FESTIVALにおける桑田のパフォーマンスは若々しさを覚える。ROCK IN JAPAN FESTIVALの来場者層が通常のサザンオールスターズのファン層と比べてもかなり若いことに加え、オールスタンディングであることやサザンの登場までに1日中ライブを見続けて最高にあたたまっているオーディエンスの熱量、更に普段簡単にライブを見ることは出来ないが曲は知っているという、近年の音楽シーンの中では異質な存在であるサザンオールスターズの登場への期待感が、この日のオーディエンスの熱量に繋がり、その熱量に刺激されたえ桑田佳祐のライブの在り方をも変えたと言えるだろう。サザンオールスターズと夏フェスならではのオーディエンスによるマジックが象徴的に作用したのがこの2曲だった。
加えてこの日の『希望の轍』において特筆したいのは、桑田の登場シーンだろう。バンドメンバーがステージに勢揃いしてイントロを弾きだしてから登場した桑田は「お邪魔します」と言わんばかりに片手で手刀を構えつつヒョコヒョコとステージイン。その姿は稀代のポップバンド、そのフロントマンとして幾多の名曲を作り上げてきたレジェンドクラスのシンガーとしての威厳をことさらに表出するものではなく、あくまでも市井の人々に寄り添いながらリスナーを楽しませ喜ばせるために歌い続けるという桑田のポップス歌手としての矜持を感じさせる。この年の大晦日に出演した『NHK紅白歌合戦』においてもデビュー当時を彷彿とさせる熱量のパフォーマンスと松任谷由実(奇しくもこの年、松任谷もROCK IN JAPAN FESTIVALのステージに登場している)と場末のスナックさながらの掛け合いを見せた。その姿はROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018における情熱の発露とオーディエンスに寄り添う人間味という意味で一致するものがある。これは意図して生まれたものというよりはむしろ、ROCK IN JAPAN FESTIVAL、そして紅白歌合戦というそれぞれのステージが持つパワーによってサザンオールスターズが元来持ち合わせている素質が引き出されたと言っても良いだろう。同時にこれは音楽シーンにおけるロックフェスの存在感が頂点を極めた2010年代後半という時代の中で、ROCK IN JAPAN FESTIVALが紅白歌合戦に匹敵する、フェスシーンやロックシーンならず音楽シーン全体を象徴するステージとなったことの証左でもあるだろう。
イントロから絶叫にも近いどよめきが発生した『いとしのエリー』や夕陽と共に演奏された『真夏の果実』など、枚挙に暇がないほどハイライトとなった場面が至る場面にあったROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018。前年のソロ出演におけるリベンジという意味合いを持ちながらもそれ以上に、サザンオールスターズにとっても、そしてROCK IN JAPAN FESTIVALにとっても極めてエポックメイキングな出演となった。
2022年8月「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2022」
前述した通り、2020年以降のフェスシーン、ひいてはROCK IN JAPAN FESTIVALは大きな転換期を迎えることとなる。2020年初頭から発生した新型コロナウイルスによるパンデミックにより、音楽フェスは開催中止を余儀なくされた。2021年には感染対策を講じた上で各地で一部の音楽フェスが開催されたものの、特に規模が大きく、また知名度の高いロックフェスは批判の声にも大きく晒されることとなった。そんな中、ROCK IN JAPAN FESTIVALは2021年は収容人数を半分としたうえでGRASS STAGEのみの1ステージ制にて開催予定だったものの、茨城県医師会による直前での開催中止要請を受け、急遽開催中止となった。
一方のサザンオールスターズは2020年6月に無観客による有料配信ライブ『サザンオールスターズ 特別ライブ 2020 「Keep Smilin' ~皆さん、ありがとうございます!!~」』を開催。当時まだまだ配信ライブが定着していない中、その後の音楽ライブ業界における有料配信ライブのひとつの試金石となると共に、当時暗い話題ばかりだったエンタメ業界を明るく照らし出す存在として、音楽が持つパワーを改めて示す役割を果たした。
2021年にはソロとして初となるEPをリリースし、それに伴って全国ツアーを開催。コロナ禍でのライブであり、集客面でもたくさんの規制や感染対策の徹底を求められるツアーであったが、開催順延などもなく、無事にすべての公演が予定通り執り行われた。ツアー中にはガイドラインの制限緩和などもあり、この2年間の桑田の活動は常にオーディエンスに”明けない夜はないさ”と示し続けるものであった。
2022年にはキャパシティ制限がほぼ完全に緩和され、各地の音楽フェスや興行も声出しこそ叶わないものの、2020年、2021年と比べるとかなり通常の景色に近いなかで執り行うことができるようになった。そんな中でROCK IN JAPAN FESTIVALは茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園から、千葉県千葉市の蘇我スポーツ公園へ開催地を移すことを発表した。
20年間に渡って続いてきたひたちなかでのROCK IN JAPAN FESTIVALの歴史にピリオドが打たれることとなったのは、コロナ禍における往来や密集の回避が理由とはいえ、ROCK IN JAPAN FESTIVALの歴史が詰まったひたちなかの地を離れることに前年の茨城県医師会の対応も含め大きな議論を呼んだ。
どんな形であれ、20回に及ぶ連続開催が一度ストップし、場所も変わり、これまで拡張し続け最大7つもの数を誇ったステージ数も4つとなった”新生”ROCK IN JAPAN FESTIVALがスタートする2022年。桑田はソロとして5年ぶりにROCK IN JAPAN FESTIVALのステージに立つことを発表した。
桑田はこの年、同世代のミュージシャンたちをフューチャリングゲストに迎えた『時代遅れのRock’n'Roll Band』をリリース。ROCK IN JAPAN FESTIVALへの出演はそのリリース直後の発表となった。豪華なメンバーと共に作り出した次世代へのエールを内包したストレートなメッセージソングは発売当時から大きな話題を呼んだ。ロックバンドは時代遅れだと半ば自嘲気味に嘆きつつも、それでもロックバンドの力を信じているからこそつけられたタイトルは、2017年における桑田なりのロック然としたスタイルでのROCK IN JAPAN FESTIVAL出演がオーディエンスに受け入れられなかったことと、2018年のサザンオールスターズでの出演がオーディエンスから高い評価を得たことに少なからず影響を受けているのではないだろうか。そんな時代遅れのバンドマンである桑田が改めて若い世代と音楽でコミュニケーションを図るため、そして若い世代がこれからも音楽を楽しむROCK IN JAPAN FESTIVALという音楽が鳴る場所を絶やさないために、という桑田なりの願いも感じる。
しかし桑田の出演は思わぬ形で叶わぬものとなる。
直前となって桑田の新型コロナウイルス感染による出演キャンセルが決定したのだ。その後の実施されたインタビューで桑田はこのように当時を振り返っている。
ROCK IN JAPAN FESTIVALへのリハーサル中、サポートミュージシャンから感染者が発生し、桑田も感染してしまったという流れであったことが桑田の口から明かされたのだ。当時はミュージシャン間においても多くの感染者が発生していた時期だった。桑田佳祐以外にもBiSH、なきごと、ゲスの極み乙女。、indigo la End、ROTTENGRAFFTY、打首獄門同好会、coldrain、Lenny code fictionといった面々が同年のROCK IN JAPAN FESTIVALへの出演をキャンセルしている。当時は音楽イベントだけでなく、至る場所や場面におけるガイドラインが緩和されたことで感染者数も増加の一途を辿っていたこともあり、こうした弊害が起きてしまうこともやむを得ない部分があった。桑田をはじめ上述したすべてのミュージシャンがその後復帰し現在もそれぞれ活動を続けていることは不幸中の幸いであったが、一方で桑田が出演予定であった8月13日は台風の影響によりROCK IN JAPAN FESTIVALの開催そのものが中止となった。2020年以降、様々な困難を乗り越えてようやく開催にこぎつけたROCK IN JAPAN FESTIVALに、まだまだ困難が襲いかかるのか、と音楽ファンは半ば絶望的な気持ちにすらなったことだろう。ただ場所を変えて開催できるようになったからそれで良しではない。地球温暖化に伴う気温上昇やゲリラ豪雨、天候という障壁はROCK IN JAPAN FESTIVALがこの季節、環境で開催を続ける上で一生ついてまわる問題であり、これはROCK IN JAPAN FESTIVALならずとも野外で開催される夏フェスにおいては共通の課題であるが、とりわけコロナ禍において他のフェスに比べてもセンセーショナルな問題が多く勃発していたROCK IN JAPAN FESTIVALに天候という壁が立ちふさがったことこそが残念でならなかった。
そんな中で桑田佳祐は自身のレギュラーラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』にて”ひとりROCK IN JAPAN FESTIVAL 生歌スペシャル!!”を敢行。療養を経て復帰した桑田がROCK IN JAPAN FESTIVALのリハーサルで収録していたバンド演奏の音源に合わせて生歌を歌うというものだ。実際に放送された曲目は以下の通り。
これはあくまでも予定されていた曲目の一部であり実際のセットリストとは異なるが、この日の桑田の持ち時間は50分であり、そこから逆算してもここに追加があったとしても1〜2曲程度だと推察され、おおよその空気感はこの放送を聞くことで掴むことが出来た。2002年、2017年と比較してもかなりキャッチーでポップな空気のするセットリストとなっており、2018年のサザンオールスターズでの出演を踏まえ、ソロ名義のキャッチーでポップかつ桑田のパブリックイメージに沿った選曲がなされている。歌謡のモチーフを現代風にアレンジ・再解釈した当時の最新楽曲である『Soulコブラツイスト〜魂の悶絶』を1曲目に据える構成は2005年のサザンオールスターズでの出演における『チャコの海岸物語』を彷彿とするが、当時のロックフェスに対するカウンターという意味合いよりもシンプルにキャッチーでポップ、そして桑田の最新モードを表出する選曲と言える。『時代遅れのRockn'Roll Band』と同じく次世代へのバトンタッチをテーマに内包した『SMILE~晴れ渡る空のように〜』の選出は、ROCK IN JAPAN FESTIVALに訪れている若い世代へのメッセージも込められてのものだろう。そんな桑田の次世代へのメッセージが最も強く表出したのが『真夜中のダンディー』での替え歌だ。
音楽を通してリベラルで多様な価値観を尊重するメッセージを発信し続けてきた桑田佳祐。よりシンプルに、より噛み砕かれた言葉で歌われる対話と相互理解の重要性は、この年の桑田の活動におけるテーマのひとつであった若い世代へ向けたメッセージだ。こういうフレーズをサラリと挟み込む桑田の音楽的スタンスは2022年、ひいては現在に至るこの現代にこそ必要なモノだろう。
『MERRY X'MAS IN SUMMER』や『可愛いミーナ』の選出は、桑田のキャリアの中では比較的知名度の低い楽曲であるものの、桑田のパブリックイメージである夏や切ない失恋ソングという要素でライトリスナーへリーチする、2018年の出演時における『せつない胸に風が吹いてた』や『My Foreplay Music』と同様の理由によるものだろう。ドープなロックサウンドを軸としていた2002年の出演や、ダウナーな楽曲が多数を占めていた2017年の出演と比較してもソロとしてオーディエンスの心をしっかり刺そうという桑田のポップシンガーとしての矜持をしっかりと感じさせる。
上記したROCKIN'ON JAPANでのインタビューで桑田はこんな言葉を残している。
これまでのROCK IN JAPAN FESTIVALへの出演は桑田にとっても特別なものだったこと、そしてこの2022年の出演についても並々ならぬ思いで出演を決めていたことがこのインタビューからも伺うことが出来る。こうした意味でもやはり、2022年の出演キャンセルは残念だったと言わざるを得ない。
そして。
サザンオールスターズ、続くー
冒頭で記した通り、サザンオールスターズは夏フェスからの引退を発表した。実に45年間、合間合間で距離が生まれながらも夏フェスと関わり続けてきたサザンオールスターズのこの”決断”には、上記した”天候”と”次世代への思い”が密接に関わっている。
周知の通り、地球温暖化の影響は気温に如実に影響を及ぼしている。
気象庁の過去の気象データ(東京都)を参照すると、2020年8月、2023年8月の最高気温は共に過去最高の34度をマーク。今年も6月の段階で静岡市などで40度を記録するなど、気温上昇は避けられない状況にある。サザンオールスターズのメンバーも当然年齢を重ねている。パーカッションの野沢毛ガニ秀行は今年10月で70歳を迎えようとしているのだ。若年層にとっても危険な気候になりつつある昨今において、高齢者であるサザンメンバーが夏シーズンに野外フェスに出演するということは死に直結する。サザンオールスターズがフェスから卒業することは、今後永く音楽活動を健やかに続けるためのプロセスなのだ。
とはいえ天候を理由に夏フェスから卒業するということは、サザンが恒例としてきた夏の野外ライブの開催もグッと減ることが予測される。ワンマンライブであればフェスと比べてもある程度メンバーに寄り添った対策を練れるとはいえ、やはり根本的には“外に出ない”ことが一番の対策である。メンバーはもちろん、ファンのメイン層の高齢化も顕著であるサザンだ。様々な事情を鑑みてもやはり、今後はこれまでとは異なる形の活動形態を取っていくことになることは避けられないだろう、ということも同時に記しておきたい。
また、今回の勇退は次世代へのバトンタッチという意味合いも強いことが桑田のメッセージからも読み取ることができる。夏フェスは現在飽和状態にあり、7〜9月は特に毎週末どこかで複数のフェスが開催されているような状態である。一方コロナ禍における経済的ダメージを回復できないまま、止むなく開催を見送った音楽フェス(岐阜県・中津川 THE SOLAR BUDOKANなど)や、今年の開催を以てその歴史にピリオドを打つ音楽フェス(静岡県・頂 -ITADAKI- など)も数多く、これはオーディエンス・出演アーティストの取り合いが激化の一途を辿った結果と言えるだろう。
このフェスを取り巻く状況は2024年が大きな転換点となることが予測され、実際にFUJI ROCK FESTIVALのラインナップが大きく刷新されたり、ROCK IN JAPAN FESTIVALの在り方がSNS上で大きな議論を呼ぶなど、既に時代の転換を予感させる状況となっている。そんな中で自身の枠を若手に託したいという桑田の思いは推して知るべし、と言えるだろう。
とはいえ、ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2024 in Hitachinakaへの出演はまだまだこれからだ。5年ぶりにひたちなかの地に復活するROCK IN JAPAN FESTIVALの締めくくりに相応しいライブをサザンオールスターズ見せてくれることだろう。そしてその先には9年ぶり16枚目のオリジナル・アルバムリリースも控えている。既に配信リリースされている『恋のブギウギナイト』、そしてTBS系スポーツ2024テーマ曲に決定した『ジャンヌ・ダルクによろしく』と、新曲も続々と公開されている。
ROCK IN JAPAN FESTIVAL in Hitachinakaへの出演決定を含む各種プレスリリースには「サザンオールスターズ、続くー」というキャッチコピーが記されていた。そう、サザンオールスターズはまだまだ続くのだ。今回の夏フェス勇退は、これからも永く永く音楽活動を続け、新曲を世に届け続けるために必要なプロセスなのだ。まずは来る9月23日のひたちなかでのライブに思いを馳せつつ、その先のアルバム、そしてきっと開催するであるツアーへの期待に胸を膨らませたい。
終わりに
本稿はサザンオールスターズの夏フェスとの関わり、その歩みを通して、サザンオールスターズの歴史と夏フェスの歴史をそれぞれ紐解くことを趣旨とした。現在の夏フェスの形とは全く異なる70~80年代の複数アーティストによる音楽イベントの在り方、90~00年代における現在へと連なる夏フェスの萌芽、そして10年代以降の現在の夏フェスの有り様というのがサザンオールスターズを通してひとつ可視化されたように思う。上記した通り、夏フェスのムーブメントはコロナ禍を経てまたひとつ、大きな転換点を迎えつつある。今後淘汰されていく音楽フェスも少なくないだろう。
私は音楽フェスの空気が好きだ。キレイな装飾が施された会場はどこでも音楽が鳴っていて、フェス飯の匂いが鼻を刺激すれば真っ青な空が私たちを覆い尽くすよう。それぞれのフェスにいろんな個性があって、その中でも楽しみ方は一人ひとりの来場者それぞれに委ねられている。どんな順番でアーティストを見ても、どのタイミングで食事をしても、自由。
私は音楽フェスのその自由さが好きだ。
私が生涯で最も憧れた音楽フェスがひたちなかのROCK IN JAPAN FESTIVALだ。私がROCK IN JAPAN FESTIVALに憧れたのは、サザンが出演した音楽フェスだったからだ。今ではひたちなかにも、蘇我にも、そしてROCK IN JAPAN FESTIVAL以外の様々なフェスにも足を運ぶようになった。愛知の森、道、市場は私が愛して止まないフェスだ。音楽に人生を変えられたように、フェスにも人生を変えられたと思った瞬間はこれまでも数え切れないほどあった。初めてひたちなかでのROCK IN JAPAN FESTIVALに足を運んだあの日、最寄である勝田駅のホームに特急が滑り込んで、ホームいっぱいに施されたロッキン装飾を見た瞬間涙が溢れそうだった。ROCK IN JAPAN FESTIVALを主催するロッキング・オン社が仕掛けた配信フェスのレポートを担当したこともあった。ひとつの夢が叶った瞬間だった。
そんな私を夏フェスと結びつけたのは他でもない、サザンオールスターズだ。彼らがROCK IN JAPAN FESTIVALに出演していなかったら、きっと私はもう少し夏フェスというカルチャーに触れるのが遅くなっていただろう。夏フェスというカルチャーに憧れることもなかっただろう。
だからこそ、そんな彼らが夏フェスを卒業することは、やっぱりさみしい。
だけど、それ以上に私はサザンオールスターズへ感謝を伝えたい。
私に夏フェスという素敵な場所を教えてくれて、ありがとう、と。
サザンが夏フェスという場所に残していった様々な財産を以て、今後もフェスカルチャーがその自由さを絶やさず、永く永く続いていくことを願うばかりだ。