好きなことを仕事にする、ということ。

ゴールデンウィーク中に、アール・ブリュットの展示会へ行ってきた。

アール・ブリュットとは、
「美術の専門的教育を受けていない(=教育による固定観念や既成概念を刷り込まれていない)人が、自分の感性や情熱のままに表現した芸術作品」
のことだ。アウトサイダー・アートともいう。

私もデザインやイラストの仕事をしているけれど、専門的に学んできたわけではなく、ほとんど自分のセンスやカンを頼りにやってきた。

そういう面で、自分と何か通じるものがあるのではないかという気がして展示会場へと赴いた。

しかし、実際に作品を観て感じたのは、置いてけぼり感だった。

知的障害者を含む作家数名の絵や立体アートなどが展示されていたけれど、「通じる」なんていう次元のものではなかった。

境界線の向こう側の、もっと向こう側の、異世界の人たちが創ったものという感じ‥

あまりにも温度差がありすぎる。

スタッフの人に「どうですか?」と訊ねられたけれど、ありきたりなことしか答えられなかった。驚くくらい、自分の中で反応するものがなかったので‥

作品にはそれぞれ第三者の解説がつけられていたけれど、それも何となく違和感を覚えた。

彼らは、他者の評価など意識していない。自分で創りあげたものを自分で評価しているわけでもない。

ただ内から湧き上がる "衝動" のままに作品を創りあげている。魂の衝動そのものを、創作テーマとして。

そういうふうにしか生きられないから、そうやって創り続けている。

それは「呼吸」と同じだ。

呼吸しないと生きていけないけれど、「呼吸しよう」と思いながら息をしているわけではない。

彼らにとって、「創る」ということは、そのくらい極自然な、生命活動そのものなのだ。

その在り方からして、私とはぜんぜん違った。

私が作るものは、ほとんど「仕事」としてのもので、そこには社会的立場を考慮した上での、いろいろな企みが働いている。

何よりも他者の評価が重要になってくるという点において、私は彼らのようなアーティストではなく、クリエーターだ。

彼らは「作品」を創っているが、私が作っているのは「商品」なのだ。

ずっとむかし、『好きなことは仕事にしない方がいい』という言葉を聞いたことがある。

私は、いちばん好きで いちばん得意なことを仕事にした。

結果、「好きなことで食べている」という自負と引き換えに、純粋な創作意欲からは遠ざかることとなった。

別にそれが悪いとは思わないし、描くことやデザインすることが嫌いになったわけでもない。

ただ、「仕事」として見たときに、自分よりもうんと素晴らしい仕事をする人たちはたくさんいて、ふと自分がここにいる意味はあるのだろうか‥?と思うときがある。

実際、私レベルの代わりなんてたくさんいるのだ。今すぐこの業界から消えても何の問題もない。

あらゆる評価に揉まれ翻弄されている私にとって、他人の評価も、自分自身の評価にさえも囚われない人たちの世界は少し羨ましくあった。

もしも私がすべての評価から自由になったとき、いったいどんなものを創るのだろう?

今の私には、とても想像できないけれど..

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