「我慢」は自分に対する暴力。
次から次へとやってくる無礼な人に対して、「人を何だと思ってンだろ・・」とひそかに憂いていたけれど、なぜなのか分かった。
自分を大切にしてくれない人が近づいてくるのは、自分自身が自分のことを大切にしていない証拠だ。
どこかで「私のことは雑に扱っていいですよー」のサインを出しているから、そのサインに同調した人たちが引き寄せられてくる。
「他者(ひと)は鏡」というのは、本当だと思う。
自分の内(なか)にないものは、外(げんじつ)には現れない。
私は何よりも「調和」にこだわってきた。そのためにずっと自分に我慢を強いてきたように思う。
私は「調和」の意味を間違えていたんだ。
世の中にはいろんな人がいて、むしろ気が合う人の方が少ないのだから、相手に期待せず、自分が率先して「我慢」することが美徳なのだと思っていた。
そして、それが「調和」につながるのだと。
結果、キャパオーバーになって自分の中で不調和を起こし始めた。
けれど、どれだけ心が不機嫌になっても、「キライなもの」を「キライ」と主張すること、「イヤなこと」を「イヤ」とはねのけることに抵抗があった。
ネガティブな感情を表現するのは子どものすることであって、大人としての在り方ではないと思っていたから。
不本意なことでも、曖昧な笑みを浮かべたまま飲み込めば、たいてい波風は立たない。
自分の中は大荒れだったけど、私はそれでも我慢しつづけた。イライラしたり悲しくなるのは、自分の器が小さいからだと自分を責めながら。
苦しくてもじっと耐え忍んでいれば、いつか道は開けると信じて、「そのとき」が来るのを待っていた。
そうして私の具合はどんどん悪くなっていった。
積もりに積もった不満で、とうとう身体が重くて仕方がなくなった。
そうなって初めて、真剣に自分と向き合わざるを得なくなったことを実感した。
受け容れていたつもりで、ゆるしていたつもりで、私がしてきたのはただの「我慢」だったのだと。
我慢とは、「おまえは黙ってろ!!」と自分を抑えつける行為。自分に対する暴力だ。
私は聴いて欲しかったのだ。
自分自身に、自分の本音を。
私は分かって欲しかったのだ。
自分自身に、自分の本心を。
私が「大切にして欲しい」と思っていた相手は、他人ではなく「自分自身」だったのだ。
***
自分の内(なか)に問題があるとき、それが不都合な形となって外(げんじつ)に現れる。
30歳にして、そろそろ本気で自分を大切にしていこうと思った。そう思わされる出来事が立て続けに起こり、そうする以外にどうしようもなくなった。
自分の人生は自分にしか生きられないのだから、これからはもっと、自分の好きなこと・好きな人たちとつながっていきたい。
そう考えたら、少し遠くの方で何かがキラリと光った気がした。
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