『かぐや姫の物語』を読む② 『源氏物語』空蝉の引用

 『かぐや姫の物語』において、帝がかぐや姫を女御に迎えたいと言っていると翁が姫に伝えるとき、機を織る姫が、蝉の抜け殻を手に取る場面があることに気が付いた。高畑勲は、決して意図なくこのような描写を行う演出家ではない。そこでまず蝉の抜け殻から確認していくと、蝉の抜け殻は「空蝉」と呼ばれている。蝉の抜け殻の様子は、古来から虚しい様を喩えとされているが、「空蝉」の語源は、「現(うつ)し人(おみ)」であり、つまり、現実世界に生きる人間のことである。仏教では、人間の生は儚く虚しいものとされていることから、「現し人(うつしおみ)」が「空蝉」と喩えられるようになった。

 『かぐや姫の物語』においてかぐや姫は、本来は月人でありながら、人間の世界に生まれ変わり人間として生きているわけだが、「現し人(うつしおみ)」=現実世界に生きる人間であるとすれば、かぐや姫は「空蝉」、つまり、現実の世界に生きる儚く虚しい存在として生きているということになる。それに加えて、姫は翁によって、高い身分を持つ貴公子の后になることが幸せであるという「高貴の姫君」として、生活においても恋愛結婚においても、自由のない生活を強いられており、子どもの頃に住んでいた山里を模した箱庭を作って回想に逃避する、虚しい〈生〉を送ってもいる。

 姫が蝉の抜け殻を手にしているのは、このように、姫がまさに「空蝉」としての虚しい〈生〉を送っているためでもあるが、どうやらこの場面においてはそれだけではなく、『源氏物語』の「空蝉」の巻を引用しているようだ。『かぐや姫の物語』では、この後、翁に導かれた帝が、かぐや姫の部屋に忍び入り、姫を抱きすくめるが、姫はするりと衣を脱いで逃げ去ってしまう場面となるのだが、どうやらこれは、『源氏物語』において、光源氏が空蝉の寝所に忍び入るが、小桂を脱いで残して逃げ去る場面を引用しているようなのだ。光源氏の手元に残った小桂の衣は、それを着ていた空蝉という女性がいわば脱皮した後の抜け殻であるということが、「空蝉」という女性の名前ともかかっているのだろう。『かぐや姫の物語』においても、帝の手元に残った衣はまるで蝉の抜け殻のようだ。

 そこで、『源氏物語』の「空蝉」の巻を確認してみると、そもそも紫式部は空蝉という、光源氏の最初の相手となる女性を、かぐや姫に喩えていることがわかる。光源氏に強く迫られたとき、本来は優しい性格であるにもかかわらず、気を強く持ち、気丈に振る舞う空蝉が、「なよ竹のようにしなやかだ」と描写される箇所がある。そもそも『源氏物語』において、紫式部は、空蝉のことをかぐや姫のようだと喩えているのだ。(注1)

 そして、『源氏物語』におけるそのような空蝉の描写は、『かぐや姫の物語』におけるかぐや姫の描写にも参照されている。「なよ竹のかぐや姫」という名は、もともと「繊細で震える細みの竹のように美しい」という意味であるが、『かぐや姫の物語』において、阿部御主人が火鼠の皮衣を持参して結婚を迫る場面で、姫は、実際に火鼠の皮衣を火にくべてみて、それでも燃えない本物かどうか証明してみてくださいと強く言う場面があるが、ことき、姫の手がふるえており、そのことに女童が気づくという描写がある。姫はもし皮衣が焼けなかったらどうしようと恐怖しながら、強気に振る舞って賭けに出ているのであるが、これは空蝉が、弱い心を隠しながら、光源氏に対して気丈に振る舞う場面が参照されている。この映画において、高畑は、紫式部によるかぐや姫の解釈としての空蝉の描写を、かぐや姫へと送り返しているのだ。

 おそらく高畑は、『源氏物語』において、空蝉がかぐや姫に喩えられていることを知りつつ、『かぐや姫の物語』を映画化する際において、帝に迫られた際に衣を脱いで逃げるという空蝉を引用した演出を加え、姫と空蝉とを重ね合わせている。そして、そのことによって、帝に光源氏が重なってくることも見逃せない効果だ。光源氏もまた帝になるべき存在であり、色好みの代表的な男性主人公でもあるからだ。帝の滑稽な言い分は、「空蝉」の巻における光源氏のそれと重なる。高畑の教養の深さと、そのことを蝉の抜け殻を姫に持たせるというさりげない描写でサインとして残す作り手としての技量は恐るべきものだが、こうして、『竹取物語』のかぐや姫、『源氏物語』の空蝉、『かぐや姫の物語』のかぐや姫が十二単衣のように重ね合わせられることによって、映画は重層的な深さを持つことになるのである。

(注1)『源氏物語』「帚木」

「その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなる好き心は、さらにならはぬを。さるべきにや、げに、 かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ」
など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、 すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに 折るべくもあらず。まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、 言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。

〈現代語訳〉
「身分の違いなどよく分からぬ、これは初めてのことです。世間の好き者と同類に見られるのは、至極残念です。いずれ分かるでしょう。わたしは一時の出来心ではやりません。これも前世の因縁だろうか、こうした振舞いを軽蔑されるのも、もっともなことだと、わたし自身が怪しんでいるのだから」
などと(源氏が)まじめくさって色々言ってみるが、(空蝉は)源氏のたぐいなく美しい御姿を見るにつけ、肌を許せば自分がいっそうみじめになり、この際はっきり嫌がっていると思われて、色恋沙汰は駄目な女で押し通そうと、つれない対応をした。人柄が柔らかいので、強い心で張りつめれば、なよ竹のようになって、容易に折れないのであった。
(空蝉は、)すごく気分が悪く、強引なやり方に、言葉もなくただ泣いている様は、あわれであった。

以下より引用。

http://james.3zoku.com/genji/genji02.html

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