カブトムシ
私は【カブトムシ】が好きだ。
厳密には【Trypoxylus dichotomus】が好きだ。
つまるところ、日本の夏の風物詩の一つである、”あの”カブトムシのことである。
他のカブトムシの種や、他の昆虫も嫌いではないし、寧ろ好きな方ではあるが、【カブトムシ】に対するそれには遠く及ばない。
私にとって【カブトムシ】は幼少の一番辛かった時期を支えてくれた『心の友』であり、今の(あるいはこれまでの)私を形作るその『一部』、あるいは、あの頃の私の『象徴』でもある。
【彼ら】と過ごした日々があったからこそ、あの頃を『単なる痛みだけの黒歴史』と思わないで居られるし、『絶対に忘れたくない尊い思い出』と肯定することができている。
『痛み』を『痛み』として大事に抱えることができている。
一番辛かったからこそ、一番愛くるしいのである。
あの頃の私は、誰よりも何時よりも『自分』だった。
カブトムシと言うと、世間の大半の人間は『子どもっぽいもの』として見向きもしないか、関心を持っていたとしても、大概【カブトムシ】よりも『ヘルクレス』や『コーカサス』のような大きくて強くて華やかでかっこいいカブトムシの方を好むし、或いは『オオクワガタ』や『ヒラタクワガタ』のような『クワガタムシ』の方を好いていることが多いように見受けられる。
小さい子供だって、「一番身近で手に入りやすいから」、もしくは「それしか知らないから」【彼ら】を飼うことはあれど、他の魅力的(とされる)なムシの存在を知ったり、手に入る位置にあったりすれば、まずそちらの方に見向くだろう。
【カブトムシ】は農家に害虫とされる程度には繁殖力も生存範囲も広く、つまり日本では珍しくもなんともないから、友達に自慢したいとかそういった目的で飼おうとする子にはあまり好かれない。飼育するにも成虫はすぐ死ぬわりに幼虫共に大食漢で、そういった意味でも手間がかかる。
自分が子どもの頃には、ちょうど『ムシキング』というカブトムシやクワガタムシを題材として扱ったアーケードゲームが一時期流行っていたのもあり、コミュニケーションツールの一貫として程度に関心を持っていた子も周りにそれなりにはいた。
しかし、それもほんの一瞬のブームに過ぎなかった。
オワコンのレッテルが貼られだしたら、衰退は容易い。
あまりのトレンドの落差ぶりに放虫問題が話題になることもあったほどだ。
あれには本当に心を痛めた。
でも、子どもの興味関心なんて大抵そんなものである。
周りの子や友達が興味があれば自分も興味を持つ、またその逆も然り。
そういう輪の中に自然と居続けることが出来る、或いは居続けようとするのが『普通の』『まともな』子であり、私は全くそうではなかった。
ただそれだけのことだ。
そもそも私は、最初からその『部屋』に入る権利すら持ち合わせていなかったし、『部屋』の入口のありかを見つけることも出来なかった。
でもそれで良かった。
あんな子たち、自分の好き嫌いすら他人に委ねる『人』たちと同じ存在だなんて、思いたくも思われたくもなかったから。
時に彼らは私を『虫』と呼んだ。
嘲笑うつもりで。
お前は『人』ですらないのだと私と自分たちとの間に線を引くつもりで。
それで構わない。
喜んで受け容れよう。
この心の痛みは『名誉』だ。
人ならざることの『証』だ。
『それ』をお前らがいつか羨ましく妬ましく思えるよう、私は恥知らずとなってでも『それ』を堂々と振りかざし続けてやろう。
そうした歪んだ思いが、私という存在を『人であること』から『虫』へと傾けていったのだと、今になって思う。
私が【カブトムシ】に惹かれたのは、偶々祖母が畑から捕まえてきた一匹の雄の【カブトムシ】と、ひと夏過ごしたのがきっかけである。
【彼】との間には本当に色々あった。
嬉しいことも。驚いたことも。ほっこりしたことも。悲しいことも。
一緒に過ごせたのはほんの短い間ではあったが、それでも私にとっては、とてもとても長く重く繊細な時間だった。
それからは毎年【カブトムシ】を飼うようになって、高学年の頃には飼っていた子が産卵してくれた幼虫を育てるまでになった。
【カブトムシ】に惹かれる過程で、本や図鑑をたくさん読んだし、『ムシキング』にも嵌ってオワコンになってからも暫く擦っていた。
『ムシキング』のカードには、それぞれムシの生態プロフィールが書かれていて、それを集めて読むのが好きだったし、アニメやゲームの物語は悲しくもよく考えさせる深い内容ばかりで、そういう所も好きだった。
私が【カブトムシ】を好きなのは、そうした思い出補正があるのも事実だが、それだけではない。
私は【彼ら】の生態というか、生き様にも魅入られている。
【彼ら】に限らず、カブトムシやクワガタムシの多くは、餌場や異性を求めて『ケンカ』をする。
それは同種間に留まらず、場合によって別種とでも行われる。
その『ケンカ』の有様は、人の間では『プロレス』とか『相撲』に例えられたりもする。
それくらいには見ごたえのある、魅力と迫力に富んだものなのだ。
ムシたちにとっては大概命懸けの闘争であるのに、それを自分たちの娯楽へと昇華させてしまう人間の浅ましさには、(一応は人間の一人である)我ながら申し訳なく思うが、惹かれてしまう心に嘘は吐けないので、どうか許してほしい。
そうしたムシ同士の『ケンカ』を見ていると、【カブトムシ】の戦闘スタイルは世界的に見てもかなりユニークなものであることに気付かされる。
有名どころである、『ヘルクレス』や『コーカサス』とそれに属する(或いは近縁の)大型(或いは中型)のカブトムシの多くは、その『ケンカ』のスタイルというのは何処か似通ったものである。
別種であっても血が近いものが多いのと、地域の種族間の競争相手が多いのも関係しているようだが、その多くは相手に大ダメージを与えるもの、或いは闘争心を木っ端みじんになる程に挫き痛めつけるものであることが多い。
具体的には、相手を頭の角の胸部の角とでがっちり挟み込んで持ち上げ、宙に掲げて「俺の方が強いんだぞ、二度と歯向かうなよ」と暫しの間降ろさずその体制を維持する。
まるで己の勝利を酔いしれると共に、相手に死の恐怖を植え付けているかのようだ。
まさに『殺し合い』。
一方で、【カブトムシ】のそれは、かなり異なっている。
【彼ら】の『ケンカ』は割とあっさりしている。
というのも、【彼ら】の『ケンカ』の終着点は「挟んで、掲げて、削ぐ」のではなく、「下から掬って投げ飛ばす」という、後腐れの少ない類のものなのだ。
そのため、勝っても負けても互いに身体的損傷は少なく済むわけである。
そうした比較的温和な戦闘スタイルであるのは、生息区域における別種のライバル(になり得るもの)の少なさも多少関係しているだろうが、【彼ら】の頭角の先が独特の形状をしているのにも由来しているのだと思う。
そうした彼らのありようが、私は好きだ。
また、私は【彼ら】の頭角が大好きだ。
先端がシャベルのように相手を掬うのに適した平たい形状をしつつ、その最端は左右対称に2×2の4つに分かれている。
それは非常に神秘的かつ芸術的な造形をしている。
合理だけではない、大自然の生み出した奇跡とも言うべき角の持ち主だ。
その形から、『さいかちむし』と呼ばれることもあったらしい。
というのもそのはずで、実は、ここまで頭角が特殊な形に進化が進んでいるカブトムシというのは、世界中探してもこの【カブトムシ】一種類だけなのだ。
日本本州の【カブトムシ】そのものは、極東アジア圏に生息する【カブトムシ】原亜種から分化した一亜種でしかないのだが、この角の形状というのは基本的に全亜種共通であり、詳しくは知らないが恐らくこの角を以てしてこの種が【カブトムシ】と定義づけられているのだと思う。
つまり、【カブトムシ】が【カブトムシ】たる象徴が、あの唯一無二の≪皂莢の角≫なのである。
夏のありふれた存在、安っぽいつまらない害虫と、時に人々に粗雑に扱われる【彼ら】は、本当はとても貴重で特別な昆虫なのだ。