いじめの報復(復讐)ってさ

インターネットとは非常に便利なもので、日常で出すのは少し憚れるようなセンシティブな話題について、様々な立場からの「生」に近い意見をあちこちで拾うことが出来る。
多くの人は、名前や顔を晒す公の場だと周囲の目を気にしてしまい、自分の本音を隠したり、人当たりの良い形に加工したりしてしまう。
しかし、匿名であれば多少気が大きくなるからか、殆ど剝き出し状態の素を晒し合うようになる。
それが時に行き過ぎて集団バッシングによる自殺などの大事にまで発展することもある。
優れた道具ほど、その扱いは用心しなくてはならないというのは本当にその通りだなと思う。

さて、現実では扱いに困るそうした話題の中でも「いじめ」問題に関するそれは、見ていて非常に収穫が大きいと私は個人的に感じている。
人間のどす黒い部分が露骨に浮き彫りになるトピックだからだ。

本当に色んな人がいる。
「いじめ被害者」の立場から語る人。
逆に「いじめ加害者」側に立つ人。
どちらでもない自称一般人として講釈を垂れる人。
表世界同様に無難に取り繕った正論しか述べない人。
「いじめ被害者」「いじめ加害者」と言っても意見や立場は一辺倒ではなく、被害者側であっても「いじめ」を半ば肯定していたり、加害者がいじめられっ子経験者でもあったりして、非常に混沌としている。
とはいえ、その多くはある種のテンプレートのようなものに収まっているようにも思っている。
一方で、私にも自身の経験に基づく持論があるが、似たような意見(経験)というのはあまり見かけることはない。
私のケースが特殊なのか、或いは匿名であっても皆何処か取り繕っているのか。
未だ定かではないが、どちらにせよ私のそれは価値があるものだと個人的に思うので、ここに記しておこうと思う。


「いじめ」の定義としては一般に、「被害者がそう感じたら、それはいじめ」などと言われるが、現法律(いじめ防止対策推進法)上では以下として定められているようだ。

『児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。』

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/06/26/1400030_003.pdf
文部科学省ホームページより

ここでふと疑問に思う。
「いじめ」を受けた側がそれを「いじめ」だと認識していない一方で、「いじめ」を行使した側が「自分はいじめを行った」と認識している場合はどうなんだろう、と。
大人だったり、見ていた周囲の子だったりが「いじめ」と判断出来れば、それは「いじめ」なのか?
「いじめ」の行使者だけが、世界で唯一それを「いじめ」だと分かっている場合は「いじめ」と呼ぶのか?

大事なのはその定義そのものではなく、その行いが倫理的・道徳的に善いか悪いかだとは正直思う。
それでもやはり、この記述だけではまだ穴があるように思えてならない。

どうしてこんなことを考えるかと言えば、私自身に思い当たる節があるからである。


私はかつて、いじめられっ子だった。
保育園の頃から小学校卒業する辺りまで、殆どの環境でそういう立場であった。
環境が変わればダーツマンが変わる。
クラスが変わって疎遠になるいじめっ子もいれば、近所ということで不定期に玩具として扱ってくる慢性いじめっ子もいた。
「いじめ」は私にとっての日常であり、常識であった。
私は歩く「いじめ」の的、のようなものだった。
だからだろうか。
学年が上がるごとに、つまり傷が増えていくたびに、徐々に色々と見えるようになった。
どうして自分はいじめられるのか。
彼らはなぜ自分をいじめるのか。
自分をいじめている間、相手はどういう気持ちなのか。
どうすればいじめたくなくなるのか。
逆に加虐心を刺激するスイッチは何なのか。
まるで暗闇にいるうちにだんだんと眼が冴えていくかのように。

そこで得た知見をポジティブな方向へ使うことが出来たなら、一体どれだけ良かっただろう。
しかし根本的に邪悪であった私は、それを己の復讐心を満たすために利用しようとしたのだった。
正直殆ど無意識というか、本能的、反射的なものだったと思う。
それでもぼんやりと、「一矢報いてやりたい、自分と同じドン底まで引き摺り落としてやりたい」そんなふうに思っていたことは今でも思い出せる。

私はある時、それを実行に移した。
大まかに言うならば、「受けているいじめを私自らの手で助長させるようにいじめっ子を刺激・誘導し、事を大きくして最悪明らかな警察沙汰へと持ち込む作戦」だった。
相手は近所の一つ年上のいじめっ子Aだった。
半ば捨て身というか、自殺のようなものでもあった。
それが唯一私に出来て、且つ一番Aに精神的ダメージを与えられる方法だと、私は直観的に思っていた。
結果として、警察沙汰にまでは至らなかったが、いじめを明るみにすることは叶った。
だが、私の心が晴れることはなかった。

以降Aとの接点はなくなり、疎遠となった。
Aは同学年からいじめを受けており、家庭内の不和など他の要因もあって、私をストレスの捌け口としていたようだった。
また、中学に上がった辺りからAが不登校になったというのも後で知らされた。
最初それを耳にしたときは、正直ざまあみろと思ってしまった。
しかし、その事実を噛み締める程に、自分の中で何とも形容しがたい罪悪感が膨らんでいったのだった。
もしかしたら、自分のあの行いが、Aを不登校にまで追い込んだのではないか。
自分のあの時の行いは、果たして正当なものだったのだろうか。
単に「報復」だとか「復讐」だとか、そういった響きの良い言葉で片づけて良いものなのか。
自分のやったことの重さを後になってようやく実感する程に、私は際立ってクズだった。

Aが私の思惑に気付いていた(後で気付いた)のかどうか、私には知る由もない。
気付いていれば、定義通り「いじめ」が成立するだろうけど、そうじゃなかった場合は客観的指標では「いじめ」ではなかったことになる。
当時関わった大人たちは恐らく気付いていなかったし、多分今でも気付けていないだろう。
それでも、少なくとも私だけは、真実を知っている。
そして私はあれを、れっきとした「私からAによるいじめ」だと今では認識している。
ここで大事なのは、Aがどう思ったかではない。
私がどう思ってそれを行ったのか、である。
そのような意味で私は、間違いなくAに精神的ダメージを与える意図をもって、そうした。
一体「いじめ」のそれと何が違うと言うのか。


私は未だに自分を許せない。
自分はいじめられて当然の、相応しい人間だった。
いや今でもそうだ。
自己肯定感なんて今まで持てた試しがない。
それも当然だ。
持つ権利なんてないのだ。
だって過去のお前自身が証明しているだろう?
そうした思いにずっと囚われたまま、死ぬこともできずにいる。

私は思う。
「いじめの報復・復讐」というのは、立場を反転させただけの「いじめ」なのではないか。
また、いじめられっ子といじめっ子の両方を経験した者というのは、「いじめを受けた傷」と「いじめを行った罪悪感」の二重苦を未来永劫背負うことになるのではないか。

現状では、「いじめ」というのはあくまで「受けた側」の視点に基づくものとされている。
だが、「いじめを行使した側の心理」というのも場合によっては考慮に入れるべきではないかと私は考える。
「ただの遊びのつもりだった」のように、いじめっ子が自己正当化のための供述をすることは珍しくはないので、比重をいじめられっ子の方に置くのは理解できる。
しかし、「いじめ」というのはいじめっ子・いじめられっ子、場合によっては周囲の傍観者といった三者の相互作用によって起きる現象であり、にもかかわらず一視点からのみで定義付けてしまうのは個人的に違和感を抱かざるを得ないのである。

いじめに対する「復讐」や「報復」というのもまた「いじめ」なのだとすれば、それは自ら「いじめ」という深淵の奥底へ潜っていく行為に他ならない。
「いじめを受けた」だけであれば、自己嫌悪は「いじめられっ子」の自分へ向くだけで済む。
しかし「復讐」「報復」という闇の誘いに乗ってしまえば、自己嫌悪は「いじめっ子」となった自分へも向かうようになる。
そうして自分の中全てが「いじめ」という漆黒に塗りつぶされる。
そうなったら、抜け穴を見つけ出すのは、もはや困難を極めるだろう。
自分の何も肯定できなくなるのだから。


















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