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毒親育ち -Part1-

【毒母編】

私の両親は2人とも戦前生まれで、晩婚だった。

友達のお父さん、お母さんの誰よりもずっと年上で、考え方も古く、他の家庭とは明らかに違っていた。ちょっとでもわがままを言えば「戦時中は…」という決まり文句が飛び出して、子供ながらにうんざりしたのを覚えている。

父も母もそれぞれ別の方面で厳しく、家に居てもまったく息の抜ける暇がなかった。特に母とは、中学生になり思春期に片足を突っ込み始めた頃から衝突が絶えなくなった。事ある毎に角を突き合わせ、酷い時には30分と同じ部屋に居られないほど私と母は仲が悪かった。

しかし、父はたとえ母が間違っているとわかっていても必ず母の味方をした。

「親は敬うもの」

頭を下げて謝るのはいつも私で、それがいつしか母への小さな憎しみとしてしこりのように私の中で育っていった。

おまけに世間体第一の母は、家庭内の愚痴を決して外に漏らすことはなかった。誰かに話していれば、どこかで自分の間違いを指摘され、学習する機会があった筈だ。その機会を見事に逃した母は、父が味方だったことも重なり、自分の過ちを正されることなく毒親としての道を邁進した。

ひとりっこだった私は家庭内に味方してくれる人もなく、親に反抗・反論すれば人格すらも否定され、思春期はまさに地獄そのものだった。

また母は、子供は勉強さえしていればいいと事ある毎に言う人だった。特に恋愛だ、メイクだ、ファッションだ、と年頃の女子が一番気になることに娘の私が興味を示すことを許さず、隠れて買った色付きのリップは見つかるとティッシュで唇を拭き取らせ、買ったばかりなのに捨てるよう言われた。洋服も母が気に入らないものを買ってくると勝手に返品されてしまう。好きな人の話など問題外だ。友達が母に聞こえるようにわざと大きな声で私が当時好だった人の話を冗談交じりにした時には、あとから「色ボケ」と呼ばれた。子供のくせに”そんなことばかり”考えていないで勉強しろ、と嫌悪感丸出しの顔で怒られた。単なる片思いだし、到底実ることがない恋だったのに、人を好きになることすら私には許されなかった。

寂しかった。

悔しかった。

友達が自分の母親に好きな人の話をしたり、相談しているのが心底羨ましかった。

そこまでしてコントロールしていた娘の私が、それでは母の期待通りに勉強ができたのかというと全くそんなことはなく、成績はお世辞にも良いとは言えなかったし、逆に中学時代は不登校になるほど学校が嫌いだった。私は優等生だった母の足元にも及ばず、当然のことながら勉強ができないのは子供のくせに”変なことばかり考えているから”だと嫌味を言われた。

中学を卒業したら留学して家を出るという目標を両親から却下された私の母への憎しみは、地元の高校に進学したことで加速する。母だけでなく、次第に父とも口を利かなくなり、家での会話が減った。

自分の殻に閉じこもるようになった私を、母は常に私が隠し事をしていると疑い、外出時に少しでも身なりを気にしようものなら直ぐに男の存在を疑った。

そして、この頃から、私は母が私に対して娘という以上に「女」としてライバル視しているのではないかと感じるようになる。それは、私がある性被害に遭った時、心配するどころか私が原因を作ったと言って憤慨し、なぜ自分ではなく私みたいな可愛くもない子供を狙ったのかと真剣に不思議がってみたり、卑猥ないたずら電話が掛かってくると「お父さんには内緒」と前置きした上で「奥さん、〇〇でしょ?なんて言ってくるのよ。ほんと、えげつないわよね」と言いながらも、まんざらでもないといった風に娘の私に報告したりしていたからだ。

母は、周りからよく美人と言われたらしく、それを自慢にしていた。一方、娘の私に対しては「アナタはお父さんに似てればいい」と言い、人から親子と言われるのを嫌がった。おそらく、母が私に対して異常なまでに厳しかったのは生真面目である以上に産まれてきた子が女の子だったことに強迫観念を抱いていたからなのかも知れない。

面倒臭い。

そんな感情しか残っていなかった。

中学の頃から何度も家出を考えたけれど、結局他に行くアテもなく、怒ると手が出る父の存在が怖くて実行には移せなかった。経済的にも親に100%頼り切っている未成年である以上、我慢するしかなかった。

高校を卒業したら留学するという目標も、再度両親に却下され、私は関東にある短大の英文学科に進学し、更に2年ほど我慢することになる。この頃には、既に両親とはまともに口を利かなくなっていた。

ここから逃げ出したい。

ただそれだけだった。