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3.11から10年。あの時新宿では…

東日本大震災から10年…

ネットで被災地の被害などを見聞きするとかなり気がひけるが、当時都心で地震に遭遇した私の体験も備忘録としてここに残しておこうと思います。

当時私は新宿のとある高層ビルに拠点を置く大手通信会社のコールセンターに勤務していました。

当日は勤務日でした。普通に顧客と通話しているところ14時46分…

「何これ、ちょっと…やだ、怖い…またあとでかけるわ」

どこにお住いの中年女性だったかは忘れたが、こんな感じで会話が突然終了したのは記憶している。センターの管轄はまさに東日本エリアだったので当然地震が起こった場所の顧客だった。

100名規模のセンターだったがほぼすべてのオペレーターがこんな感じで通話をそれぞれ徐々に終え、固まる。

耐震構造のしっかりした52階建てのビル。それでも揺れている時間が長く、地震の、事の重大さがわかった。構造上の仕組みなんだろうか、それとも地震が収まっていないんだろうか船みたいな横揺れが永遠と続く。

この職場、防災意識が低く、上司たちはただオロオロするだけで避難指示が一向に出ない。この時印象深かったのは上司に確認すると、「大丈夫よ、耐震構造なんだから」と意味不明の余裕。

私は前の阪神大震災で当時勤めていた会社の本社が被災し、直後応援で被災地を訪れており、地震がどれ程危険で悲惨なものか、この目で確かめていたので発生30分後だったか、自主避難することに。

当然、エレベーターは停止していた。超高層ビルであったが、幸いにも職場は9階だったので助かった。非常階段は少し込みだしていた。渋滞途中壁にひび割れ、一部天井の剝がれ、落下が見られた。

地上に近づくと渋滞。階段で立ち往生。やはり避難するのが普通の行動だと思うのだが…大手通信社ともあろう職場がこの会社ダメだな…とメッキが剥がれた瞬間でもあった(笑)

地上に下りて高層ビルを見上げるとウソみたいにビルがゴムで作ったかのように揺れている。当時動画もガラケーで撮ったはずだがどこかへ行ってしまった。みんなびっくりしてた、こんな左右に揺れて大丈夫なのか?って。

ふと我に返って家族の安否をしたいと思い当時のガラケーで電話したが繋がらず。建物内に一か所だけ公衆電話があったのを思い出し行くとまだみんな安否確認に気付いていないのか誰もおらず即電話できた。

幸いにも自宅は棚に置いてあったぬいぐるみなどが落下した程度とのことでひと安心。この時点で震源地などの情報を一切持ち合わせていなかったので実家の名古屋にも安否確認。当然無事で、ここで震源地等の情報を得る。逆に心配されたが自主避難し無事であることを報告。

続々ビル勤務の避難者が地上に。普通この行動でしょうと自分の行動に間違いがなかったことを確信。皆ビルを見上げて驚いている。30分くらい経っただろうか、これ以上の規模の揺れは無い、と見て避難者もかなり下り切って非常階段の混雑も緩和されているところを見計らって職場に戻ることを決断。

このとき非常階段で調理服、コック帽の人が下りてきたのとすれ違う。「え、一番上から降りてきたんですか?」と聞くと「そうだよ!30分以上かかったよ!途中で詰まっちゃうしさ!」と。レストランは最上階52階だったのだ。マジか…

先ほどの公衆電話に大行列(笑) こういったものは早く気付いたもの勝ち。職場に戻ると姿が見えなくなったので心配してた、とのこと。知らんがな。阪神大震災でビルがポキポキ折れてるのを見たので、絶対安全なんてものは無いんだ、と説明しても怖がり過ぎ、と臆病で脱兎の如くのウサギ扱いされ全く話がかみ合わず。この間もビル構造による揺れは収まらず船酔いのような状態に。本当に気持ち悪かった。

当然こんな状況なのでコルセンに電話などはなく、17時前だったか、早々に帰宅指令が出る。

311帰宅難民_東京都ハンドブックより-

そして報道で伝えられている通り、交通機関のマヒ。職場に先んじて情報が入ってきたので(入手経路は不明)遠方の社員は帰宅を断念。多少の災害用具は備蓄があったようで職場泊の社員もいたようだ。

私は幸い、バイク通勤者であったのでこの渋滞を横目に普通に帰宅できた。

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この時の光景が忘れられない。新宿駅周りは普段でもこの賑わいはあるのだが、甲州街道沿いずっと下って下ってどこまで西に走ってもこの列が途切れず、ずっと続いていた!

暇人じゃないので確認なんてしていないが、高井戸くらいまでなら普通にあるだろうな、仙川、いや府中くらいまで続いたんだろうか…

翌日。9時開始のところ、実際会社に定時出勤したのはわずか5人だった。

私のようにバイク通勤者か近所に住む自転車通勤者のみだった。10分前くらいだろうか、どうやってか所長もなんとか出社してきて「本当に感謝の言葉もない。何とかスタートはこの5人で乗り切ってくれ」と労いの言葉。100人規模のセンターを5人でどうやって、って思ったが杞憂に終わった。

電話も殆ど無かったのだ。

この日の一本目の顧客との会話をよく覚えている。

開始5分後早々電話があり、こんな状況でクレームか?地震の文句をここで言われても、と戦々恐々として出ると、なんと「そちらは大丈夫でしたか?」と安否を気遣ってくれている電話だった。ホントは所在地を明かしてはいけないルールだったが、センターは都心にあって震源地から離れている、通常運営できているのでご安心くださいと感謝の言葉をお伝えし終話した。

この災害時、平常心を保っている顧客に出会って、この後遭遇するであろうドタバタ(実際大変だった)を何とか乗り切ってやろう、という前向きな気持ちになれた。

会社泊の社員は翌朝始発を待って帰宅した、とのこと。帰宅組も長時間徒歩で何とか帰った、などコンディション不良、また来ようにも電車が不通、本数制限などで出勤できないなどでその後も30名程しか出勤できなかったと記憶している。昼過ぎにやっと出勤してきた友人は「これでも朝ちゃんと出たの!」と言っていたな。

その後…不備確認など連絡案件があってもこの地区には絶対連絡するなと具体的に地区を指示され、仮設住宅避難者の契約対応などにあたった。まさに3.11に石巻市よりの契約申し込みデータがその後何の連絡もなく何か月も経過しているのを見るとこの顧客は…と考えると悲しい気持ちにもなった。


と、いうのが10年前の私が遭遇した東日本大震災の出来事でした。

災害時の行動。私は幸いにも耐震構造のビルが持ち堪えたので無事だった。しかしそれは結果論であって、やはり自分の命は自分で行動、自分で守る、人の指示待ちなんかしない、ということで間違いないと確信した。

それにしても先の阪神大震災といい、この東日本大震災といい、なぜ野党が政権を握る時に限って大震災が起きるのでしょう?もう日本古来の八百万の神の怒りとしか思えないタイミングですよね。

東日本大震災で亡くなられた方に深く哀悼の意を表します。合掌。



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