この部屋から東京タワーは身を乗り出さないと見えない
「この部屋から東京タワーは永遠に見えない」という本を読んだ。自分の二十数年間を固有名詞化してしまえば、この本の一章にも満たない文量に集約できると思って、拙い文章を書いてみた。
僕は東京の郊外で、高卒の両親のもと、お金に困ってはないけど裕福でもない、現状維持が優先される普通の家庭で生まれ育った。
幼少期はよくいるサッカー少年だった気がする。地域ではそこそこの成績を残していたが、周りがやっているからという醒めたスタンスでボールを蹴っていた。罰走、連帯責任、ボトムアップの醸成。今の僕と同じ歳だったサッカーコーチはどの部分に楽しみを見出していたんだろう。
当たり前に荒れた公立中学に進んだ僕は、何もしなくても定期テストで上位に位置していた。頭が良くなりたいわけでもなく、優秀な高校に行きたい訳でもなく、うだつのあがらないサッカーを誤魔化すための手段だった。文武両道という言い訳。当然、難しい数学の問題は放り投げていた。
高校は家から一番近い偏差値50前後のところを選び、なんとなく生きていけばいいという気持ちは変わなかった。現状を見て、その中で最低限の努力をして、さぼってるのがバレなければいいなという気持ち。勉強もスポーツも全く努力出来なかった。
当然、大学受験でも努力が必要な学部は目指す気力が起きず、自宅から通いやすいというセリフを免罪符にして郊外の大学に決めた。部活は表向きカッコよくてそんなに厳しくなさそうという理由で選んだ。付き合ってくれそうな同級生に告白して数年付き合って別れた。就活は、激務のイメージがない大企業を20社程度受けて、引っ掛かったところに就職した。友達に馬鹿にされたくないので知名度は大事だ。とにかく努力したくなかったので、業務内容なんて一切調べなかった。
配属は東京から1,000Km以上離れた地方の小さな工場。そこでは昭和そのままの空気が流れていて、みんな灰色の作業着でカチカチとマウスを動かしていた。デスクワークに飽きた時は工場内で自転車を走らせ、淀んだ海を眺めた。業務は楽しくないが、厳しくもない。当然、必要以上の成果は目指さず、退勤までの時間を頭の中でカウントしていた。
学生の時に買ったカウズと村上隆のフィギアは部屋の隅に追いやり、休日は酒とマッチングアプリで埋める日々を過ごした。
東京を地名としてではなく、何か特別な場所として意識したのは、大学の同期と電話している時だった気がする。同期は東京での仕事の成長、競争、スキルアップを熱く語っていた。それを痛々しいと思いながらも、焦りを感じる自分がいた。縁もゆかりもない土地で"社会を支える"使命とかなんやらの調整業務をする意味を見出せなくなった。中学のサッカーコーチの方がよほど充実してる。
東京で働くために、第二新卒で転職活動を始めた。相変わらず怠惰な思考の僕は、知名度、給料、仕事量を天秤にかけて、東京の転勤のない会社に転職した。
東京で働いて3年になる。オフィスと芝公園の狭い1Kマンションを行き来するだけの生活。東京タワーにはもう見向きもしなくなった。
自分の人生を内省するほど、意識は高くない。だけど、他人の生き方に触れるたびに、否が応でも考えさせられる。俺の人生は正解なのか。このままでいいのか。