人生とは(認知症だった母の死の前後から)

1年半以上前に書き溜めていたものを、ようやく一旦描き終えてみた。

2023.02.25(土)


長姉から連絡あり。認知+介護で入所中の施設から「延命措置どうするか」の問い合わせをうけたけど、どうしようかと。
その際の情報で、施設からは2/14頃から様子がおかしい連絡を1日おきにもらってたらしい。どうやら、施設でコロナが蔓延し始めて、個室から出れない状態になったのがきっかけではないかということだ。
そして、この日に体調が急変したっぽい。聞いた症状では、食欲が低下しており、水分も摂らなくなり、尿もでず、浮腫みがひどいという話しだった。
突然の「延命措置」という言葉には正直驚いた。
食事が摂れないなら、まずは点滴とかの処置ではないの?という素人考えも、又聞き状態ではよくわからず。26日にとりあえず、面会できる例外対応取ってもらう事になり、様子を見てくるという話しで落ち着いた。
この時点では、すぐに行くということにはせず、もう少し状況クリアになってからと判断した。

2023.02.26(日)


朝、施設から連絡あり、お袋がコロナ感染したということで、面会がキャンセルとなってしまった。施設によると様子は落ち着いているということではあった。


2023.03.07(火)


3/9に施設が提携している病院に移されることになったと連絡受ける。
点滴するも、自分で外すらしく、施設では手に負えなくなったというのがどうやら理由のようだ。
3/8にコロナ明けるので、10分位防護服着て顔見れるようにしてくれたらしい。ケアマネージャーにも話を聴くことになったということだった。
やはり、認知がひどいという状態のようである。


2023.3.08(水)


施設の個室に初めて入り、寝たきりの状態で顔を見てきたという写真も送られてきた。
11月に会った時とはもう全く別人の感じ。顔は相当浮腫んでた。
3/9に、病院の医者(訪問治療で施設に来ている)に14:00から説明を受けるということだった。
施設より、病院に入ったほうが面会もしやすいのではないかという仮説もたててみた。

2023.03.09(木)


医者と話をした内容をシェアしてもらった。
医者は良い人で安心したらしい。
医者曰く、長くはないでしょうということだった。老衰状態になっているのである意味し方はないらしい。食事がとれない、水が飲めなくなるというのは老衰の症状であると。
コロナで肺炎にもなっており、水も溜まっている状態らしい。
治療方針としては、苦しくないように様子を見ていく方針らしい。
認知の状況は相当ひどく、姉らのことも認識は出来てないらしい。
残念ながら、病院での面会は出来ないと。

2023.03.10(金)


病院での面会は、部屋の中には入れずに外から見るだけということになりそう。原則、県外の人は病院には入れないという謎の規則のようだ。
酸素チューブも自分で外すらしく、拘束バンドをつけることになりそうで、その同意書にサインを翌日しに行くらしい。

2023.03.12(日)


マイレージで7月に確保してたチケット使って、次の週末に行くことを姉に告げた。休みのシーズンのため、18日土曜のフライトは午後便しか空いてなかった。
午前中はいぶし銀もあったので、午後にしたというのもある。


2023.03.13(月)


2/19(日)の11:00に病院で面会できるように交渉してくれた。
2/18は17:00‐19:00のフライト予約した。

2023.03.16(木)


病院から連絡あり、血圧低下、酸素飽和も低下だが、持ち直したらしいと。
明らかに1週間前に入院したときより弱っているらしい。何が起きるかわからん。
何となく覚悟は必要な直な気はする。
今にして思えば、低下したバイタル系の数値を確認しておくべきだったと悔やまれる。

2023.03.17(金)


何となく、もうちょっと早めに行ったほうが良いのではないかなという気がしたので、フライトを15:00‐17:00に変更した。

2023.03.18(土)


朝一に”いぶし銀P”の打合せを終えて、羽田空港の保安検査場混雑しているかももあり、早めに家を出た。横浜はあいにくの雨、タクシー手配も捕まらず、ゴロゴロにビニール被せて徒歩で傘さしながら、駅まで向かった。
この日から相鉄線が東横線に乗り入れ初日ということで東横線のダイヤに遅れが出てた。家出るタイミングが遅れたので、そこはラッキーだった。
3/19は病院で面会し、その後は実家に向かい、親父の彼岸のお参りという段取りをした。
フライトは一番後ろの席に陣取った。Jのアビスパと対戦する湘南ベルマーレの選手たちが後方の座席に陣取っていた。そして、久々のスターウォーズ号だった。
着陸してから、降りるまでのタイムラグ中にトイレに行ける余裕があった。その後はCAさんの誘いに乗っかり、C3POのエプロンを着て、一緒に記念撮影までした。
空港からホテルへ移動し、チェックインしたのが18:00前、少しゆっくりして、晩飯にと思ったのは、「ふくちゃんラーメン」だった。
検索すると地下鉄七隈線で20分+徒歩7分とあり、天神南駅がホテルから近いの、これは行くっきゃないということで、移動した。
ふくちゃんラーメンは19:00過ぎても混んでいた。並んでる人がいて、入り口前に名前を書く様になってた。
名前を書く紙が一杯だったので、ページをめくってるまさにその時に、携帯が鳴った。
姉からだった、「病院からすぐ来いと言われたから向かうので、あんたもすぐに来なさい。どこにおるん?」という内容だった。
住宅街にあるふくちゃんラーメンから南区の病院まで、さてどうやって行けばよいのか?地下鉄で天神まで出てからか?、いややはりタクシー拾うのが一番だろう。でも、住宅街でタクシーは流していない。ん~アプリ?いやぁ、それも・・・・
取り合えず、大きな通りに出ようとそちらに向かった。
運よく大きな通りの交差点で空車のタクシーを発見し、飛び乗った。
ラッキーだった。がしかし、「井尻のxx病院まで」だけでは運ちゃんには通じなかった。
本部に連絡し、検索してもらいNAVIにデータ転送してもらい、道案内が始まった。
確かGoogle Mapによると20分位で到着とあったが、途中若干の渋滞にもあい、30分くらいかかっただろうか。
その合間に、LINEでやり取りしていたが、病院到着直前に「もうだめ」という連絡があった。
後で聞くと、姉らがついた時には既にダメだったらしい。
当直医の説明によると、脈拍30~40になったので電話したということを言ってたような気がする。
それって遅くない?と文句言いたいところだったが、いまさら言ってもしょうがない。

病院の受付で家族のものだと伝えたところ、看護師が迎えに来ますと。
その前にと受付の横にある仕切られたエリアに連れていかれて、エプロンとフェースシールドと手袋を着用させられた。
その時は言われるがままに従ったが、受付の兄ちゃん、看護師、医者、いずれも普通の恰好である。外から来た人のみ、感染対策の防護服状態は一体意味があるのか?

2Fに上がるエレベータの中で、看護師に「だめですか?」と問うと、「そうですね。連絡する30分位前までは呼びかけには反応してたんですけどね」と言われた。
そのあと、看護師に連れられて、病室に横たわるお袋に対面した。
そこには手を握る2人の姉が寄り添ってた。
自分が到着したときには心拍系はゼロ、横線を示していた。現実はこれなんだろうと。
すぐに医師が来て、脈を測り、瞳孔が開いていることを確認し、3/18、19:50死亡宣告がされた。
認知症の症状が進んでいたので、会話ができたとは思えないが、最後に声を聞くこともなく、意識ある姿を見ることもなく、逝ってしまった姿をただ見守るだけだった。
比較的冷静でいる自分がいた。
2人いるうちの年配の看護師は、遺体をいつ引き取りに来ますか?ということをしきりに気にしてる感じがした。死亡宣告されてすぐに、病室の外の待合所のようなところに来るようにいわれた。
その間、病室にお袋は独りぼっちである。死んでいるとはいえ、なんなんだろうという思いがあったのは覚えている。
なんだか、そこからは慌ただしいばかりである。
当直医師から説明を受けた。
CTを見せられ、肺炎の様子や、白くなっているあたり、彼らは画像を見ればそれがどういうことかわかるのだろう。
だが、素人的にみて、白いのが何を意味するのかははっきり言ってわからない。
結局死因は老衰による肺炎ということとなった。死亡診断書にもそう記すという説明であった。
死亡宣告されてここまで正確に時間を測ってたわけではないが、おそらく30分位だろうか・・・・

この日の昼間、たまたま、姉貴らが葬儀屋巡りをしていたらしい。
まぁ、今回の帰省時にその辺のこともしっかりと話しておこうと議題には上げていたのだが、まさか、下見した日の夜に、それが活かされることになろうとは・・・
結果的に、直葬センターというところにした。

費用の面もそうだったが、遺族の意向を聞いてくれる感覚があったのが結果的に良かった。
死亡宣告されて、葬儀屋決めるまで1時間もかかってないような気がする。
なんというか、人ひとりが亡くなったというのに、こんなにも急かされるのだろうか?
葬儀屋が準備して遺体を引き取りに来るのにも時間はさほどかからなかったような気がする。
とにかく、葬儀屋の所に運ばれて、個室に遺体を安置してもらった。
線香を灯しながら、今後のことをどうするかの家族会議が始まったのは21時30分は過ぎてたかな~。
直葬センターの責任者という兄ちゃんは、見てくれはチリチリパーマに眼鏡かけてるという、なんか頼りない感じであった。人は見た目だけで判断してはいけない。いろんなことを説明してくれて、遺族の意向に従うというスタンスだった。

そこで知った事実色々

  • 死亡宣告時間から24時間以内は法律で火葬はできない・・・したがって19日の19:50以降でないと火葬できない。

  • 19:50以降になると火葬場がやってないので、必然的に火葬できるのは早くて翌20日以降となる。

  • 死亡宣告された病院が南区、申請するのは博多区在住の姉貴。となると火葬許可を取るのは南区か博多区役所になる。したがって、火葬は福岡市の火葬場。

  • お袋は唐津市の住民なので、福岡市在住ではないから火葬費用は¥75000かかる(福岡市住民だったら¥5000)。

  • もちろん、届け出を唐津市役所に出して、唐津の火葬場を使うこともできるが、そうなると遺体を運送する費用とかも発生する。

  • もう一つあるのは、死亡届が一旦福岡市に出されるので、唐津市役所への死亡届処理は役所間でのやり取りになるので、時間がかかる。

  • 20日の福岡市の火葬場の状況を見ると、午後の希望の時間には行けそうな状況ではある。ただし、この後同じように届け出が増えない前提ではあるが

  • 通常は告別式を行い、出棺して荼毘に付す。したがって、火葬は昼間の時間が多い。参列する人にも限りがあるので、その前夜に通夜をするというのが一般化しているということだった

  • うちは、家族で静かに送りたいし、誰かを呼ぶということもないので、通夜も告別式もしなくていいよねと言うのが姉弟での会話だった

  • 葬儀屋の話によると、もう一つあるのが和尚さんをどうするか?宗派によって色々としきたりがあるということだった

  • そもそも我が家が檀家になっている寺が曹洞宗であることを再確認したのは、この時である

  • 曰く、曹洞宗は「葬式」を始めた宗派らしく、寺の意向が結構強いらしい

  • こうこうで、こういう感じで家族葬です、よろしいでしょうか?と問うと、葬式やりに来るからとおいう話しになる。そうするといつ来れるかによって火葬の時間云々が変わってくる。遺族がどうしたいかを意見したほうが良いということを助言された

  • 寺の意向を聞くのは翌朝にしようとなり、問うのは俺の役目となった(一応喪主だし)

  • ストーリーとしては、通夜も告別式もやらず、火葬にする。遺骨を持っていくから、初七日までの供養を寺で上げて欲しいと言おうというものにした

この時点で多分22時過ぎかな。この直葬センターは24時間入口は開放しているのでいつでも来ていいですよ。遺体はこのままでもということだった。
セキュリティは大丈夫なのかよと思ったが、ずっと一晩中線香をあげているわけにもいかず、宿泊所もない(厳密にいうとそういうスペースはこの日別のご家族が利用中だった)。
並行して、カミさんと子供が来る手配をかけなければ、そもそも明日以降の段取りが決まってないので、いつくればいいのか?飛行機の手配、ホテルの手配どうするか何も決められない。とにかく20日は何かしらイベントはすることはないだろうから、20日中には来福ということは決まりだ。いつのフライトかは明日以降だ。とりあえず宿泊場所だけは手配した。

なので、一旦帰って明日朝出直すということにした。朝一寺に電話するということで。
ホテルに戻る前に、飯を食おうとしたが、23時過ぎはあまり選択肢がなかったが、何とか食して長かった1日が終わった。

2023.03.19(日)

朝は早く起きて、年初から続けている、Moring Pageを記した。そこで、寺との交渉シミュレーションを練って、朝一にまずは寺に電話した。住職ではなく切り盛りしている奥さんが出るかと思いきや、住職が出た。
シナリオ通り説明した。遠方であるし、彼岸で忙しいからご足労はいただかずと話したが、19日は埋まってるが、20日、21日なら対応可能だというコメントがあった。さらに、葬儀はどういう形かとシミュレーションしてない問いを受けた。いったん保留として電話を切った。肝心の通夜も告別式もしないということを強調できなかった点を猛省。
一旦葬儀屋に集合して、電話の状況を踏まえ、再度電話をした。
この日は忙しいということなので、てっきり奥さんが出るかと思いきや、これまた住職自ら📞応対された。
今回は、しっかりと我々の意思を伝え、火葬後の21日(火)に寺にお骨を持っていくので、そこで初七日の供養までしてほしいを依頼し、了解を得て、時間は14時とした。
死亡宣告受けてから遺体搬送まではあっという間だったが、ここにこぎつけるまでは時間がかかった。
あとは、葬儀屋とどういう形で何時に出棺するかといった家族葬の内容を詰めるだけ。こちらは姉貴らに任せた。
家族がやってくるのを何時のフライトにするかを決め、手配をさせた。
この時点でお昼。近くの資さんうどんにうどんを食べに行った。天気の良い日曜日だった。
そして、家族だけとはいえ、黒いズボンと上着を持って来なかったので、ユニクロに買い物に行った。
なんだか、前夜に亡くなったという感覚は無く、もちろん悲しみに伏すという感じとは程遠い感じだった。
葬儀屋さんが役所に行ってくれて、火葬は20日(月)の14:00と決まった。
前後して、納棺師に来てもらい、きれいに身体をしてもらい、白装束を身にまとうということをしてもらった。
こちらも体を拭くだけ前進きれいいしてお化粧までする3段階のオプションだったが、そこはケチらず大した差額でもなかったので、最上級のサービスにしてもらった。
凄く丁寧に化粧してくれて、今にも起きてきそうな死に顔に仕上げてくれた。
その後に棺に入れるのだが、納棺師と助手は全員女性だったので、自分と義兄さんが手伝って棺に遺体を収めた。
顔の周りには花も手向けてもらい、とても奇麗だった。
この頃、奥さんと次男がやってきたはずだ。
明日以降の段取りを確認し、夜には葬儀屋を後にした。
急遽の来福だったので、家族は別のホテル泊となった。
かろうじて空いていた、駅の焼き鳥屋で遅い晩飯を食し、ホテルまで送って行き、長い1日が終わった。

実は20日以降の出来事は、メモしてなかった。
それは、翌日(3/20)に受けた理不尽なことが怒りにつながりメモしてなかったのである。
半年以上がたった今、note完成させるべく、再び記しておく。

2023.03.20(月)

朝から、葬儀屋に行き、お袋のそばにいて、線香を灯し続けた。
14:00出棺前に近くにあったコンビニへ昼食を買いに行った。
会社の上司には前日の時点で、母が死亡したことや、家族葬だから、香典も弔電も固辞する旨、LINEで連絡しておいた。
ところが、コンビニ帰りに会社の代表電話番号からの着信がかかってきた。
内容は、事務手続きに必要な情報を今すぐ欲しいとか、pdfをメールしたが見てくれただろうか?とかの内容だった。葬儀する当日の昼間にわざわざ問うてくる内容か?常識を疑った。
火葬を待っている間にも、この上司からはメールが届いた。
それも、こちらからしてみると、今じゃなきゃいけないの?という内容にしか思えぬ。ガン無視してやった。
相手の気持ちや、相手が今どういうことをしているのか?考えられないことは悲しいことだなと、この時通づく思うた。
最後の別れの時には、親父の時には流れなかった涙が嗚咽となって出てきた。なぜなのだろう?
隣に居合わせた息子が背中を叩いてくれてたのを覚えておる。
あっという間に人は骨と灰になるのだ。
骨壷に収骨すると、「はい、以上です。お疲れ様でした」という感じで火葬場からは退去させられるた。
その日は正直何をどうしたか?記憶にない。
とにかく、翌日は実家に戻り、戒名をもらい合わせて初七日の法要を済ませるために、実家のある街へ移動なので、多分レンタカーの手配とかしたのだろう。

2023.03.21(火)

この日は朝から車移動。実家に立ち寄り、寺へ行き、法要を済ませ、位牌も出来、参列した甥っ子家族も交えて、夕方は博多に戻って、会食したのを覚えてる。
5月には親父の7回忌があるので、お袋の49日も同じ日にできないか、お寺で交渉もした記憶がある。
亡くなってから、わずか3日しか経ってないのだ。
翌日は家族は一足先に自宅へ戻り、私は、役所や金融機関巡りなど、シニアの姉らとコツコツと雑務を処理。

その後・・・・

家のこと諸々もあり、この後、3ヶ月に1回位のペースで、福岡通いが始まったのか。嫌、コロナ明けからお袋に会いにきてた気もする。
実家をどうするかイシューがまだ未解決なので、遠征はまだまだ続く。

これも、人生なのだ!

To be continued







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