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「4畳半の隣の住人」「マンガの学校の体験入学」

青年が暮らしている4畳半のアパートには、4人の住人が住んでいました。1階は大家さん夫婦の住居になっており、2階の4部屋がそれぞれ賃貸住宅として貸し出されているのです。

トイレは共同でお風呂はついておらず、皆、銭湯に通っています。

特に仲のよかったのは隣の住人でした。青年が住んでいるのが203号室。隣の202号室に住んでいる男性は年も近く、すぐに仲良くなることができたのです。確か、年齢は1つ上だったのではないかと思います。

名前は与那国ケン。「兄貴」とか「ケン兄貴」と呼んでいました。

ケン兄貴は九州の福岡出身で、「地元にいる頃は、よく天神に遊びに行ったもんさぁ」と言っていました。名前からすると、元々の親族は沖縄出身だったのではないでしょうか。

東京には、アニメーターになるためにやってきたのです。そうして、飲食業のアルバイトをしながら、アニメの学校に通っていました。この学校にはいろいろな科があったのですが、アニメーター科は2年制で、2年間かけてみっちりと絵の修行をします。

この時代はまだ手描きであり、デジタル作画なんてものはありませんでした。「トレース台」という道具の上に紙を載せて、下の絵をなぞって描くといったようなこともやっていました。

「ケン兄貴!ゲームしようよ!」と言って、青年はよく遊びに行っていました。兄貴は、最新のゲーム機を持っており、ふたりでよく格闘ゲームなどをして遊んだものです。

今になって思い返すと、アニメーターになるための勉強の邪魔をしていたのではないかとも思います。申し訳ないことをしたものです。

…とは言え、2人は仲が良く、よく一緒にご飯を食べに行ったり、新宿に繰り出したりしていました。ケン兄貴こそ、東京に出てきて初めてできた「友達」だったと言えるでしょう。

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ケン兄貴の影響もあり、アニメの学校に興味が出てきました。

さっそく、青年は体験入学に申し込みます。さすがにアニメーターになる気はなかったので、「マンガ科」に申し込みました。これが青年の運命をわけることになりました。

この学校には、他にも「ライトノベル科」というのもあったのですが、「小説家になるのに、わざわざ小説の書き方を教えてくれるクラスに行っても仕方がないだろう」という考えが働いたのです。

この辺が青年のイノベーター的な資質の持ち主なところで。「まっとうなやり方を良しとしない」のです。もしかしたら、父親の残した「作家や芸人はヤクザな商売。まともな人間ではなれはしない」という言葉が心に刻み込まれていたせいかもしれません。

いずれにしろ、青年はマンガ科に進みます。ここでアニメーターの科に進んでいれば、絵が上達していたかもしれませんし、ライトノベル科に進んでいれば、普通に小説家としてデビューしていた可能性もあります。でも、どちらも選ばなかったので、それらの可能性は閉ざされてしまいました。


体験入学に行ったのが、確かちょうどハンバーガー屋さんの仕事を1ヶ月休んでいた時のこと。その後、職場に復帰しましたが、結局は飽きてしまいすぐにやめてしまいました。

そうして、4月になると、マンガの学校に通い始めます。19歳の4月のコトでした。

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ヘイヨー
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