創刊の辞 小川榮太郎
ここに『湊合』を創刊する。
「湊合」は吉田松陰「福堂策上」から採つた。森鴎外も時に好んでこれを用ゐたやうである。「奏」は供物を神前に捧げるを原義とし、さんずいを付けて「湊」とすれば、水上航路の集ふみなとの意となる。楠木正成を祀る湊川神社にも通ふ。かうして松陰、鴎外、楠公と名を並べて記せば、自づから響くものあつて、ここに創刊の志を加へる必要もない日本の歴史の調べをなしてゐよう、それを感じられる読者を、まづ私は求めたい。
時は令和、文藝も言論も地に堕ちた。
低俗これを覆ひ尽くし、人品の荒廃と知性の低迷、堕ち行く処を知らず、日本は文明から転落し、しかもそれに自ら気づかない。
「公論」がない。
私心なき「公論」の場がない。
文藝、言論の場はその多くが徒党となり、村となり、イデオロギーの排他があり、商業主義の名のもとに商ひに失敗し続け、才能は育たず、下品と幼稚と矮小を恥ともせず、私心のみ横行し、精神の光輝と高揚、高調は遥か過去のものとなつた。
我、血涙を絞つて言ふ、昭和までの先人の鬼哭が聴こえぬのか、諸君。日本人はどこに消えたのか、我ら文人論客が栖とした日本はどこに消えたのかといふ彼らの鬼哭が、本当に聴こえぬのか。
――由来日本とは何であつたか。
私は答へる、言霊の幸ふ國である、と。
これは神秘の説ではなく、単純な歴史的事実である。
日本の言霊の今に残された撰述は記紀萬葉に始まるが、天皇から辺土の民に至るまで、歌を詠まざるはなく、文藝は祝詞、和歌、藝能、古老の昔語りとして、国土に満ち、それは昭和中期まで続いた。
国語の美しさが、日本の母であつた。日本の母の記憶が、我が国の歴史であつた。
この母に身を委ね、この母を敬ひ、この母の教へに従つて、日本は日本であつた。
日本は、古代帝王による統一と半島経営、律令と仏教によつて大唐を模しながら国柄を確立した奈良朝、国風の雅を「古今集」「源氏物語」に極めた平安、武家の世となり戦乱と下剋上の絶えざる中で、つひに東山から桃山における日本的生活様式の確立、能楽、連歌といふ至難の藝能を武家、庶民に至るまで堪能する世界史にも例を見ない文藝上の大教養時代となり、さうした多様な国柄を記憶に留めつつ、江戸、明治近代に至つた。
国語といふ母に抱かれて、我が国は文武無双の強国であり続けた。
その国語といふ大河から、自ら陸に上がり、人外の地で、衰弱し、負け続け、内なる豊かさを喪ひ、経済大国からさへ転落し、己を喪ひ続けてゐるのは、誰であるか。
それが今の日本ではないのか。
日本では、文が主、武が従である。
文藝が主、政経が従である。
道が主、利が従である。
外国はいざ知らず、我が国にあつてはこの序列を正さぬ限り、強い日本は戻らず、衰滅からの恢復はない。
縄文一万有余年の平和が、我々の身体深くにそれを教へ、歴代天皇が御製に範を示され、戦国武将でさへ、文の教養ない者はなかつた。江戸の武士道は道義と教養の別名に他ならない。下級藩士出身の明治の元勲、伊藤博文、山形有朋でさへ漢詩文をよくし、今の私たちの教養の比ではなかつた。大東亜戦争に散華した若き英霊の無数の辞世の和歌こそは、我が国の国力の、最後の証でなくて何であらう。
日本の再生は言霊への帰還の外にはない。
これは文士の精神論ではなく、歴史に照らしての、合理的な処方箋である。時代錯誤の言ではなく、歴史の孤児となつた今の日本人の命を救ふ唯一の政策である。
その時、小生、志ある人の集つて世を正し、指針となる言の葉の湊なれかしと祈り、ここにそれに応じる善き人集ひ、文藝、藝能、政経の談、学術の論ひが一堂に会し、『湊合』創刊の運びとなつた。
大方の愛読、御支持、御参加を切に希ひ、微志の一端を記して創刊の辞に代へる。
小川榮太郎
【初出:『湊合』創刊号(令和六年三月刊)】