ヨシュアたちの勝利がどのように人々の記憶に残ったのか 聖書考古学②
シャローム!
ホーリーランドツーリストセンターの平和です!
今回はヨシュアたちが実在した証拠? - ハツォル 聖書考古学①の続きです。
ヨシュアたちの勝利が、その後の人々の記憶に残った
パート①にもあったように、後期青銅器時代IIB(紀元前13世紀頃)のハツォルの町は破壊されました。
この出来事からヘブライ語聖書が編纂されたであろうバビロン捕囚期前後(様々な学説がありますがこの記事では触れません)まで、
ヨシュアたちのハツォルに対する勝利が人々の記憶の中に残っていきました。
口伝・文書でヨシュア記の物語は次世代へと受け継がれましたが、それ以外の方法でもヨシュア記の話は受け継がれていきました。
後期青銅器時代の神殿・宮殿を囲むようにハツォルの町の開発が進む
後期青銅器時代IIB(紀元前13世紀頃)の破壊層の上には、
鉄器時代I(紀元前11世紀頃)の新しい町が発掘されています。
驚くべき事に、鉄器時代では後期青銅器時代の神殿・宮殿があった場所が廃墟として残されていました。
この現象はアッシリア帝国による侵略/破壊頃(紀元前8世紀頃)まで続きます。
つまり、ハツォルの住民は意図的に神殿・宮殿の跡地を残したまま、その周りで生活を続けたと言うことになります。
この不思議な現象はハツォルの発掘レポートの平面図を実際に見比べてみると分かりやすいです。(テルアビブ大学にてこの研究をしてい時に私が撮った写真を以下にアップロードしています)
【ハツォルXII/XI層:鉄器時代I】(紀元前11世紀頃)
赤矢印
神殿・宮殿の周りに生活の跡であるピット(古代のゴミ箱のようなもの)が数々発見された
黄色○⭐️
後期青銅器時代の神殿・宮殿の跡の上には何も建てられていない
【ハツォルXII/XI層:鉄器時代IIA】(紀元前10世紀頃)
赤矢印
神殿・宮殿跡の周りにも建築物はあるが、跡地の上には建てられていない
濃い黒線(この層に登場する新しい建築物)
ハツォル全体に新しい建築物が建てられ、町を囲む壁と門ができる
黄色○⭐️
後期青銅器時代の神殿・宮殿跡の上には何も建てられていない
【ハツォルVIIa層:鉄器時代IIA-B頃】(紀元前9-8世紀頃)
赤矢印
神殿・宮殿跡の周りに建築物が増えるが、跡地の上には建てられていない
濃い黒線(この層に登場する新しい建築物)
町の開発がさらに進む
黄色○⭐️
後期青銅器時代の神殿・宮殿跡の上には何も建てられていない
【ハツォルV層:鉄器時代IIC】(紀元前8-7世紀頃)
赤矢印
神殿・宮殿の跡地を囲むような壁が発見された
濃い黒線(この層に登場する新しい建築物)
町の開発がさらに進む
黄色○⭐️
後期青銅器時代の神殿・宮殿跡の上には何も建てられていない
平面図から読み取れるもの
ハツォルの住民は意図的に後期青銅器時代の神殿・宮殿の跡地を残したまま、周囲で生活を続けました。(平面図の黄色の◯⭐️に注目)
アッシリア帝国によって侵略/破壊される頃には、
その跡地を囲うかのような壁までがあります。
次に上記のようなことが起きた理由について二つの学説を紹介します。
Ruin Cult(跡地崇拝)とその二つの解釈
*Ruin Cultの正式な翻訳が見つからなかったため、今回は跡地崇拝と訳しています
ヘブライ大学のZuckerman教授とハイファ大学のBechar教授は前回の記事でも紹介した後期青銅器時代の神殿・宮殿のオルトスタト(玄武岩などを綺麗に削って壁に付けたもの)が
鉄器時代の町で再利用されていることに着目しました。
Zuckerman教授とBechar教授はこの現象をRuin Cult(跡地崇拝)と呼びました。
後の世代の人々はこの跡地にて様々な儀式を行っていたということです。
1. Zuckerman教授の見解
鉄器時代の人々が青銅器時代ハツォル(カナン人)の過去の栄光を覚えて祝うためにRuin Cult (跡地崇拝)を行ったという主張です。
Zuckerman教授は次のように述べています
2. Bechar教授
鉄器時代の人々がかつて偉大であったハツォルに対する勝利を覚えて祝うためにRuin Cult (跡地崇拝)を行ったという主張です。
Bechar教授によると
後期青銅器時代の神殿・宮殿(ヨシュアたちの勝利)が記憶として残った
興味深いことが、どちらの主張にしても
鉄器時代のハツォル周辺の住民(北イスラエル王国)・ハツォルを訪れた人々は後期青銅器時代の神殿・宮殿の廃墟を目の当たりにしたということです。
つまりヨシュアたちの勝利の物語が神殿・宮殿の廃墟という形で
「人々の記憶」の中に残ったということです。
ではどのようにこの記憶がユダ王国にも伝わったのかという疑問が出てきますが、一つの学説として
アッシリア帝国によって北イスラエル王国が滅ぼされた後、大勢の難民がユダ王国に流れ込んだ
という、テルアビブ大学のFinkelstein教授の学説があります。
その時にこのハツォルの記憶がユダ王国に持ち込まれたと考えることができます。
最後に
口伝・文書といった方法以外でも聖書の物語は次世代へと受け継がれました。
今回の事例では、ハツォルの神殿・宮殿の廃墟がRuin Cult(跡地崇拝)という形をとってヘブライ語(旧約)聖書が編纂された際のさらなる情報源となったのではないでしょうか。
以上、私がテルアビブ大学にて研究していたテーマの一つでした。
聖書考古学シリーズまだまだ続きます!
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