「猫ケ洞の王さま」第6話 【神頼み】
ようやくバスに乗って、地下鉄の駅に着いた頃には陽が傾きかけていた。迷って歩き回ったおかげで足がぱんぱんだった。それでも寄り道しようと思ったのは、疲れてハイになっていたせいかもしれないし、コサブローが帰ってこないかもしれない家に帰るのが怖かったせいかもしれない。
黄色い東山線を栄方面。栄から名城線を下って上前津駅。地下鉄のホームは学生たちで賑わいはじめていた。
おしゃべりに夢中な女子高生たちの間を縫って、階段を登る。昔より寂れたとはいえ、まだまだ元気な町だ。地上に出て、大きな道路の向こう側を眺めた。昔見知ったのとは違う飲食店が並んでいた。
「コサブロー」
おっかなびっくり声を出す。蚊の鳴くような声、というのがピッタリだ。人通りの多い場所で叫ぶのは気が引ける。店と店、家と家の隙間の暗がりに首を突っ込んで猫がいないか確認した。
大きな神社を通り過ぎて右に曲がると、スガキヤのラーメンのいいにおい。小さな店がひしめく商店街の間を抜けて、雨戸とシャッターが締め切ったままの二階建ての家の前にたった。祖父の家、だったところだ。
「コサブロー」
今度は少し大きな声で言った。通りすがりの学生が振り返ったのが見えた。
「コサブロー」
もう一度言う。いるはずがない、はっきりそう思った。金山にある自分のアパートからここまで随分あるのだ。道のりだって知らないだろう。
『大須の方にいい神社があります』
森本君のひそひそ声が聞こえた気がした。朝、出勤した時に喋っていたことだ。小さすぎて何を言っているのかわからなかったが、なぜかありありと思い出せる。
『オオタタネコ神社というんです。霊言あらたか。そこにいなくなった猫との思い出の品をおもちなさい。きっと戻りますよ』
森本君が猫探しの神社を知っているはずがなかった。彼は猫が好きじゃないのだ。アレルギーだとか言っていたのを聞いたことがある。
もし知っていたとしても、私はそうした迷信を信じるたちじゃない。神社に祈ったところで、いちいち祈られた猫を探していたら神さまだって大変だろう。
『おおたたねこ』。地図アプリにそこまで入力したところで候補がすぐに出た。『大直禰子命神社』。駅のすぐ近くに本当にあった。
スマートフォンをポケットにしまう。ばかばかしい。しかし、足元に何か小さなもの気配がした。みると、走って逃げていった。毛むくじゃらで、尻尾が長い。ねずみだろうか。食べ物屋が並ぶとどうしてもわくのかもしれない。
『やってみたところで損にはならないでしょう』
また森本君の声だ。本当に森本君の声だろうか。こんな口調で喋るのを聞いたことがない。とはいえ、そうかもしれない。溺れるからには藁を掴み、迷い猫を神に頼んでも、何かが減るわけではない。やれることは、全部やろう。
踵を返して、駅に戻った。商店の明かりがつき始めていた。普段ならそろそろ退勤する時間だ。忙しい休日になったものだ。結局休んではいられなかった。
自宅に荷物を放り込んでまた上前津に戻ってきた時には陽が暮れていた。大直禰子命神社は神社というよりお堂のような建物だった。ビルとビルの隙間に、小さくて古びた鳥居が立っていた。電灯もなく、暗い。申し訳程度しかない石の階段を登った。ほんの数歩で本社までついてしまう。手を合わせて、困った。お願いの仕方とかは決まっているのだろうか。
「ええと……コサブローが。おじいちゃんのねこが戻ってきますように」
「来ましたね」
すぐ耳元で声がして飛び退いた。「ひ」と声が出た。影が動く。大きな頭をしていた。本当に大きな、もじゃもじゃ頭。ポケットからスマートフォンを出して陰に向けた。白い光の中に眩しげに顔を逸らす森本君がいた。
「目が痛くなるんでやめてもらえますか」
「びっくりした。どうしているんですか?」
「佐々木さんが、来るかなと思って」
森本君がにやりと笑ってこっちをみた。朝からの変な様子が、なおっていない。
「持ってきましたか? 思い出の品?」
森本君が顔を近づけてくる。ちろり、と何かが額にぶら下がって揺れていた。髪の毛の中からピンク色の細い紐のようなものが垂れている。動いていた。何かの尻尾のような。
ぎゃおう、と猫の叫び声がした。森本君が悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。鳥居の方から光がさす。
「佐々木さん、こっち!」
聞き慣れた声がした。森本君の脇をすり抜けて鳥居をくぐった。
「走って!」
声の主が私の手首を掴んで引っ張った。転びそうになるのを堪えてついていく。細道を抜けて道路を信号も使わず突っ切った。走る車のライトに前を走る人物の揺れる長い髪が揺れた。