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「猫ケ洞の王さま」第7話 【金子さん】
「待って……」
道路を渡り切ったところで息が切れた。朝から歩き通しなのだ。腰を曲げて呼吸を整える。背後で車が通り過ぎた。あそこを渡ってきたのかと思うと背筋が寒くなった。
「ああ。ごめんなさい。疲れちゃいましたよね。人間ですもんね」
昔の詩人みたいな言い方で、私を手首を引っ張ってきた人物が言った。
「大丈夫ですか?」
しゃがんで私の顔を覗きこむ。誰だかもうわかっていた。
「一体どうなっているんですか、金子さん」
「行きましょう。森本君が追ってくるかもしれない」
私の問いには答えないで、金子さんがまた私の手を掴んだ。『追ってくる』とはどういうことだろう。とりあえず立ち上がった。あの状態の森本君と金子さんなら、金子さんの方が多分ましだ。引っ張られるままについていく。
見慣れた商店街を過ぎて、大きな提灯の灯る観音の横を抜けると、途端に人気がなくなる。オフィスビルの電気はもう落ちていた。まばらな街路灯の灯に、木造の建物が浮かぶ。飾りのある瓦屋根に重厚な間口の扉。普通の民家ではないような。随分古いのか、窓には細い格子が嵌められて、凝った作りだ。
「この辺りは少し昔の名残がありますね」
前を歩く金子さんが言った。
「昔って、金子さん、いくつなんですか」
答える。私の見積もりでは、金子さんは私よりも若い気がしていたからだ。
「ここ気をつけてください」
金子さんがするりと路地に入り込む。人ひとりがやっと抜けられる細い道だ。ぬるりぬるりと道をすり抜ける金子さんについて行くのに必死で、なんでわざわざこんな狭いところを、と言いかけたのを飲み込んだ。集中しないと顔に擦り傷でも作りかねない。
「お寺まで、もうすぐなんで」
当然のように金子さんが言った。お寺ってなんだ。どこに向かっているんだ。真っ暗な曲がり角を壁に張り付くようにして進むと、急に広いところに出た。木と漆喰でできた壁に、屋根のついた扉のある大きな門がぼんやりと見えた。
「お殿様の隠れ家です。コサブロー様の古巣です」
「『お殿様』?」
金子さんに聞き返す。
「ここには多分いないでしょう。一旦図書館に戻りましょう」
金子さんは振り返りもしない。私がおろおろしていると、金子さんが冷静な声で続けた。
「もたもたしていると追いつかれますよ」
森本君の開いた瞳孔を思い出す。慌てて金子さんを追いかけた。寺の塀を越えると小さなガソリンスタンドがあって、その向こうに堀川がのぞいた。川の向こうに名古屋駅に連なるビル群の灯りが見える。
「おります」
金子さんが、ひょいと道路の縁を飛び越えた。驚いて、河岸に走る。
「早く」
金子さんが下で手を振った。河岸はコンクリートで固められていて、麓に僅かに踊り場のようなものがあった。そこに立つ金子さんのすぐそばにオレンジ色のビニールボートが繋がれていた。
街から一段降りた水路に、モーターの音が響いた。橋の上を車が走っていくのが見えた。
「あのう、これ……」
黙々とボートを動かす金子さんに声をかける。何から聞いたらいいかわからないが。
「ボートですよ?」
「わかりますよ。どうしたんですか、これ」
「いつも使ってるやつです。私の、通勤手段なので」
そういえば、金子さんが駅に向かうのを見たことがない。車で通っているのだとばかり思っていた。川なんだ。確かに、図書館のすぐ裏は堀川だ。
「その、怒られないんですか?」
「誰にですか?」
詰まった。誰にだろう。警察だろうか。市役所? 通勤手段を館に届けたんじゃなかったっけ。
「総務課……、とかに?」
「ああ。私は、確かに図書館で働いてはいますが、図書館には雇われていないんで」
金子さんがさらりと言った。雇われていないって、何?
「図書館員じゃないんですか?」
「員、では多分ないです。仕事はちゃんとしてますが」
混乱して、黙ってしまった。右手に大きなビルが見えて、橋が近づいた。見覚えがある。あれは納屋橋だ。下から眺めるなんて初めてだ。欄干に人が見えて、下の私たちを指差した。背広を来ている。会社帰りだろうか。川を渡るボートに驚いたんだろう。無理もない。背広の人が周囲の人に向かって何か叫んだ。欄干によじ登る。「危ない」という間もなく下に落ちた。
「見つかった」
金子さんが舌打ちをした。モーターの音が強くなる。橋の下を通り過ぎると、背後にさっきの背広の人が浮かび上がってもがいているのが見えた。
「人間が、なんで猫を飼い始めたか知っていますか?」
モーター音を掻き消すように金子さんが大声をあげた。何を突然言い出すのだろう。
「か、かわいいから?」
当てずっぽうで答えた。ばちゃん。背後で水音がする。また橋から誰かが飛び込んだらしい。
「それは間違いありません。もう一つ。大事なものを守るためです。米とか、本とか」
「本?」
「そう。本です。書物をねずみから守るためです」
速度をあげたボートの横には波飛沫ができている。また橋が見えた。欄干の上に、今度はもう人が登って待ち構えている。
ぎゃおう。
金子さんが、橋に向かって大声をあげた。さっき神社で聞いた猫の声にそっくりだ。欄干の上の人たちがばたばたと道路の方に落ちていく。ボートが跳ねながら橋をくぐった。金子さんは川の先を見つめながら大きな声で喋り続けていた。
「昔、大直禰子命神社には、大変に力のある猫の王さまがいらっしゃいました。お城のお殿さまを守る猫化けです。お殿さま亡き後、王さまは猫ケ洞にご隠居をなされました。けれど、相変わらずねずみは街を狙っています。お殿さまの大事なものを守るため、王さまは弟子の猫をお殿様の文庫(ふみくら)に残されました。王さまに妖術を授かった化猫、即ちーー」
金子さんがこちらを振り向いた。暗がりに、両目が金色に光っている。にい、と耳まで裂けそうな口で笑った。
「ーー私、カネコです」
「猫ケ洞の王さま」第7話