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エッセイ ほらふき志願(ネコ戦記 12月)

こんばんは。
今年一年お世話になりました。本年最後のnote記事です。

毎月公募の履歴を書いていきますよとかいいながら、12月は星々以外の応募はゼロです。クリスマスのお話でひいひいでした。

代わりに自分がなんでお話を書くのかな、ということについてちょっと書こうと思います。他の書き手の方のこうした話を読むたびに、自分がちょっとずれているようで動揺するからです。

私は実は嘘をつくことができません。

鼻が伸びるから、とか、それ自体が嘘、とかではありませんよ。

正確に言うと「意図的に嘘をつくことはできない」でしょうか。人を騙すための嘘がつけないのです。このため、戦略ゲームとかがめちゃくちゃ弱い。遊びだって割り切れば平気になるんですが。営業も下手なんですけど、これは言い訳ですね。

私はいわゆるDV家庭のサバイバーです。主に父親ときょうだいですね。
残念ながら(?)末っ子で力が弱かったため、一方的に殴られる側でした。

暴力というのは大抵理不尽ですけれども、殴られる原因となるケースに「私が嘘をついた(と相手が考えた)から」というものがあります。この場合、「(相手にとっての)真実」を言うまで、罵声と鉄拳をくらうはめになります。江戸時代の拷問みたいなものです。

あまりにも日常的に、長期間行われたため、随分経った今でも私は「今嘘をついたな」と感じると体に実際に痛みが走ってしまうようになりました。まだ治りません。大人は子供を殴らない方がいいです。後遺症が残ります。

他にもいくつか、私には「できないこと」があります。だいぶよくなったけれどね。

例えば、「人とご飯を食べること」。夕食で家族が集まると必ず誰かが罵声を浴びました。可及的速やかに食事を終わらせたかった。「会食は楽しい」ということを理解するまで何十年もかけるはめになりました。

「食事を残すこと」。夕食の内容が気に入らない、と毎晩のように母が罵声を浴びる家でした。この対応策として私が考えたのは『食事をいっさい残さない。私がおいしいと思っているから』という態度です。この『いっさい残さない』というのは、自分以外の食事も含みます。父が一口だけ食べて放り投げた食事も私が食べることにしたんです。「おいしい、おいしい」って。かなり治りましたが、お腹がいっぱいだろうがなんだろうが、相当量の食事を詰め込むことができました。特技?かも。酷使し過ぎたのが、今ではすっかり胃弱です。

特技はもうひとつあります。私は、自分の頭を自分でおもいきり殴ることができます。少し試みるとわかりますが、健康な人は途中でブレーキがかかります。痛いからね。

これ、なんの話かというとね。

子供の頃の私は「願えばかなう」とか「良い子は幸せになる」とかいう教訓的な物語を信じていたんです。「待てばヒーローがやってくる」とか。

このため、家族に何か悪いことが起こったときに、自分を限界まで傷つける、という習慣ができてしまいました。「自分が悪い子だから、家族が不幸になる」と思っていたわけです。論理的ではありませんね。最初の命題が間違っている。正しくは「良い子は幸せになることもある(そして悪い子も)」が正解です。無論、限界まで痛めつけても事態は好転しませんでした。私の行為はまったくの無駄です。世の中には無駄な努力というものがあります。教訓を教えるならむしろそちらにするべきでしょう。

もうひとつ。
「待てばヒーローがやってくる」。これも間違いです。なぜそういうことになりうるのかは長いのでごっそり省きますが、小学生の私が半裸で泥酔した父親が車道に飛び込もうとするのを夜中に止めようとしているとき、助けにくる人はありませんでした。泣こうが、叫ぼうが、誰も来ません。誰か助けを呼ぶには、できるだけ指名で、声をあげないとだめです。警察がおすすめです。仕事だから。「誰かが見てくれてるよ」は窮地の子供を我慢させてしまいます。助けは、呼ばないとダメです。「助けて」は、言わないと誰にも届きません。そして、届いてもくるとは限りません。呼ばれた人もいろんな事情のある人間だからです。

想像に難くないと思いますが、こういう暮らしをしていた子供時代の私は、夜を恐ろしいと思っていました。家族が集まり、食事をとれば、なにか悪いことが起きるかもしれない、と思っていたからです。起こった夜は先の見えない恐怖に震え、起こらなかった夜は、眠りたくありません。明日になったら悪いことが起こるかもしれませんから。未来は真っ暗で希望がありませんでした。BADENDしかないゲームみたいなものです。

みんながそういう風じゃない

それがわかったのはずっと大人になってからです。
理不尽は自分の善悪によるものではなく、未来は選べる。今ではそれがわかるほどにはかしこくなっています。

できれば、そうしたことが、昔の自分のような小さな子供に届けられたら、と思うのです。

贅沢は言いません。ひとりでいい。ひとりでも、そうした子の夜が安らかでいられたらと思います。大人でもいいんだけど。

辛い夜がきても、君は泣かなくていいし、死ななくていい。
明日はいいことがあるかもしれない。何も悪いことは起こらないかもしれない。
もしいまいちな1日でも、ここに嘘つきの猫がいるから。
君が眠る夜までに、なにか面白いお話をひとつ考えておくよ。

それが本音の私の理想で
それだけの力のある声がほしいなあ

ということで、おはなしを、書いています。
文学に対する崇高な目的も、壮大な野望もありません。なんだかごめんなさい。

みなさまの今年が良い年で
来年が、もっといい年になりますように。

一年間お疲れ様です。きっとみなさま頑張られたんだと思う。もう一度言います。おつかれさま。頑張られましたね。

お忙しいなか、ねこのおはなしにお付き合いくださりありがとうございました。

本当に。
どうもありがとうございます。

みなさま、どうぞ、よいお年をお迎えください。

エッセイ No.023