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「猫ケ洞の王さま」第4話 【迷い猫】

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 スマートフォンで動物愛護センターを検索すると「地下鉄本山駅から徒歩30分」と地図アプリが告げた。今更ながら車を持っていない自分を恨んだが、歩いて行くことにした。じっとしていても嫌なことばかり考えるし、本山駅は学生時代よく使った駅だ。久ぶりにうろつくのも悪くない。

 懐かしい地下鉄の駅の階段を登ると、街はずいぶん様変わりしていて、正面にある大きなスーパーの三階がボウリング場になっていたり、学生時代にはなかったスターバックスのおしゃれな店が道向こうにどんと居を構えていたりして面食らった。
 地下鉄出口のすぐ側にある横断歩道の向こうは三叉路だ。自信がなくて図具にスマートフォンを手に取った。地図の自分を示す青い点がどこを向いているのかわからなくて、躯体をぐるぐる回してみる。一向によくならずに今度は自分がぐるぐると回った。
 情けない。昔あんなに歩いた道なのに、すっかり忘れている。

 少し歩いた結果、横断歩道の向こうで選んだ道は結局間違っていて、スターバックスのところまで戻り、ガラス張りの店先をぐるりと回って、一本違う道を進んだ。店の中のおしゃれな学生たちににうろうろしているところを見られたかと思うと恥ずかしかったし、一度進んだ道を戻るのは気持ちが疲れる。きっと、ここで心が折れた人たちがここに入って店を賑わせているのだろう。スマートフォンを取り出して、注意深く経路を確認する。本当に、これがないと目的地につける気がしないが、学生時代はなかったはずで、いったいどうなっているのかわからない。

 幸い、昨日の雨が嘘のように空は晴れていた。手にスマートフォンを握ったまま、人気のない住宅街を進んだ。平日の真っ昼間にこうやって歩き回るのも久しぶりでなんだか楽しい。

 小さな洋食屋さんや、学生むけの焼肉屋さん、ベランダの柵が飾り枠になっているビル。画廊の近くにある雑貨屋らしい店のショーウインドウをのぞくと、オブジェみたいにフライパンやら食器やらが並んでいた。学生時代に入って、びっくりしてすぐに店を出たのを思い出した。食器にそんなにお金を払うなんて信じられなかったからだ。大人になって働くようになればそうなるのかもと思ったが、ごめん、いまだになってはいない。
 白い壁のビルの下にあるのは鰻屋で、当時はあまり気が付かなかったが、このあたりは比較的古い、そしてお金のある人たちが住む街なのだろう。いまだに派手な看板の100円ショップや、コンビニなんかも見当たらなかった。少し狭めの道路はなだらかに登っている。空気が抜けて遠くを見ると大きな池が見えた。だんだん緑が増えて、公園の中に入った。迷わないように何度も確認したスマートフォンが熱くなっていた。

 木に囲まれた芝生の中の道を通って、ほんの一跨ぎしかない橋を渡る。橋の下の川は何か農場のようなものに続いているらしかった。ビニールハウスの中に木が植えられているのが見えた。そのまま道なりに歩くと木の看板が見えた。「動物愛護センター」と彫りつけてあった。

 飼い主を募集している犬のための小さなゲージや、ガラス張りの部屋が見える。入り口らしいドアの向かいに大きなボードが立て付けられていた。あれが金子さんの言っていた掲示板だな、と思った。チラシを入れた肩掛けカバンの持ち手をぎゅっとにぎり直した。足早に駆け寄る。

「探しています」「連絡ください」「いなくなりました」。ボードに貼られたたくさんのチラシに、どれも大きな文字が踊っている。みな、迷い猫のチラシだ。こんなにみんな探しているのか。鳩尾が痛くなる。こんなに見つからないのに、コサブローは見つかるのか。ふと、アパートの入り口でコサブローがないているんじゃないかと思った。こんなところに来なくて、家にじっとしていた方がよかったかもしれない。猫は家につくっていうし。
 家。
 と思ってまた肩を落とした。うちは家じゃないかもしれない。コサブローの家は、大須にある祖父の家なのではないだろうか。結局自分で出て行ったのかも、と思って泣きそうになった。

「ご用ですか」
窓口から声がして、いそいで鼻を啜った。しゅうしゅう、と中身のない音がした。
「猫が、いなくなったので」
『お世話になります』くらいの作り声で答えた。こういう時、働いている大人は得で、すごく損だと思う。コサブローが逃げた時間や家の住所、毛並みなんかを説明してチラシを渡した。
「よろしければ、もう2、3枚いただけますか?」
窓口の人が遠慮がちに言った。よほど困っているのか、少し笑ってしまったような声で続ける。
「最近、夜にねずみが出るらしくて、チラシをかじられてしまうことがあるので」
今時、ねずみに何かを齧られことなんかあるのかと、周りを見渡した。
「ねずみって、この辺の、木とかに住んでいる野生のねずみですか?」
「野生……」
窓口の人がううん、と首を捻る。
「野生と言ったら野生なのかもしれないですけど、クマネズミだそうです。最近、雨が多くて、それで住む場所が変わってきちゃったんじゃないかって清掃の方が言ってました」
「住む場所?」
「雨で、低いところから逃げてきたんじゃないかって」
雨か。歩いてきた道を思い出した。ここは随分高台なのだ。カバンを探って、コサブローのチラシを3枚、窓口に渡した。金子さんの作ったチラシは何しろたくさんあった。
「はい。見つかるといいですね」
両手で受け取った窓口の人がにっこりと笑ったので、私もにっこりと笑って返した。多分、きっと、わざとそうしているのだろう。おろおろ泣いてしまいたくて仕方がない、私みたいな人がたくさん来るのだから。

 窓口から施設の外に出て、木の看板の横を通った。一跨ぎで渡れる橋。抜けると、ずっと広い芝生が広がっていた。
 なんだか少し変だな、と思ってスマートフォンを見る。眉間に皺が寄った。また道を間違えている。こちらはさっき来た道の反対側だ。動物愛護センターは2本の道路につながっていた。その二本をはさんだ真ん中に大きな水色の塊があって、これはなんだかすぐにわかった。さっきはビニールハウスに隠れいていたけど、大きな池がすぐ目の前にあるのだ。来た道は池の反対側だった。また戻るのか、と思うとまたどっと気分が萎えた。

 親指と人差し指で地図を広げて、少し考えた。顔を上げて池の方を見る。少し寄り道して行こうと思った。帰り道は調べればわかるのだ。最悪、池をぐるりと回っていけば辿り着ける。池の周りには並木が揺れて、木陰になった細い道が続いていた。見るからに気持ちが良さそうだった。深呼吸する。急いで家に帰っても、きっと部屋の隅で泣くだけになるだろう。うん、と頷いて木陰の道に進んだ。

 池はさざ波が立っていて、ボートもなく静かだった。鉛色の水面が時折光る。柵に近づいてみると動くものがある。
 しばらくして木陰が消えて、コンクリで固められた斜面が顔を出した。池のへりがところどころ階段状になっている。自然の池ではないらしい。少し先の階段に人が座っているのが見えた。麦わら帽子をかぶって、竿に糸を垂らしている。釣りをしているらしかった。

「何か釣れるんですか?」
近寄って背後から聞いてみた。麦わら帽子の頭が動いてこちらを見た。眉毛に白いものが混じった男性だった。浴衣を来ていた。
「うーん……。釣れた、ような気もするけど」
若い人には見ないほど強く訛った調子でぼんやりと男性は答えた。『釣れたような気もする』ってなんだ。釣れたら覚えているだろう。
「釣って、食べたりとか、するんですか」
「いや……。あれに、やろうと思って」
「『あれに』って?」
「うーん……なんだったかなあ」
竿を動かして釣り糸を引き上げて、男性が首を傾げた。傾げたいのはこちらのほうだ。
「あんたは?」
男性がまた池に釣り糸を垂れながら大きな声で言った。
「なんですか?」
「あんたは、何か釣りに来たの?」
「いや、ええと……。あそこの施設に。迷い猫を届けに」
「ああ。いなくなったの?」
「はい、そうです」
「心配だね。わしも昔、猫、飼っとったよ」
「そうですか」
「丸々して、かわいかった。やっぱりいなくなったことがあって、往生こいた。心配で、心配で」
「そうですよね」
「一晩中名前呼んで。ええと……名前は……ええと……なんだっけ」
男子がまた首を捻り出したので、小さく礼をした。なるべく音を立てずに後ずさる。逃げるなら今だと思ったのだ。道を少し戻って、木陰のほうだ。くるりと向きを変えて、進もうとすると
「猫、見つかるとええね!」
と背後から声をかけられた。振り向いて、また会釈する。気まずい。戻るのはやめにして、かといって男性の方には戻らないで、池の道の反対側に続く芝生の広場の方に向かって早足で歩いた。逃げようとしたことを気づかれたくない。サッカーでもできそうなほどもある広場を斜めに突っ切った。坂になっていて、上の方に道路がのぞいている。あそこまでいけば、帰り道の道筋が立つだろう。運動不足のふくらはぎがいたんだ。登る。登って、ようやくついたコンクリートの広い道に安堵して、スマートフォンを見ようとして気がついた。すっかり冷たくなっている。嫌な予感がした。目の前まで持ってきて、サイドボタンを押す。反応がないのでまた押した。今度は両手に持って、じっくりと押して離した。うんともすんとも言わない。電池がすっかり切れていた。

「猫ケ洞の王さま」第4話