「猫ケ洞の王さま」第1話 【雨】
あらすじ
本文
ざあ、と雨音がして顔を上げた。ガラス張りの壁に目をやる。横殴りの雨だ。
「最近よく降りますね」
隣の受付に座った同僚の金子さんがカウンターの上の『休館日のお知らせ』の角を揃えながら言った。細長いネイルの先が尖っていた。
「電車、止まったりしませんかね」
先日の大雨を思い出しながら祈るように言った。ホームに水が入って、地下鉄すらもダメだった。名古屋駅の改札口に、ずぶ濡れの通勤者たちが押し寄せる。苛立ちが熱気になってむせるようだった。二度とあんな目に会いたくない。
「大変だったでしょ、金子さんも」
人ごとのように涼しい顔をしている金子さんに聞く。長い黒髪を揺らして、今度はデスクのパソコンのキーボードの掃除をし始めている。
「まあ、私は」
シュッシュッと、雨で人気のない図書館の館内に金子さんのキーボードブラシの音が響く。
「大丈夫です。濡れるのは嫌いですが、川が決壊でもしなきゃね」
「ここもダメでしょ」立ち上がって伸びをする。あくびが出た。「川が決壊しちゃったら」
ガラスの向こう側で、ずぶ濡れの背広姿の男性が横切るのが見えた。傘をさすのを諦めたようだった。地下鉄か、でなければ直接私鉄の駅に向かうのだろう。図書館のすぐ横にある橋に向かって小走りに走って行った。堀川を渡る景雲橋だ。
堀、というのはお城の堀である。
本好きが高じて就職した県立の図書館はちょっと変わった所に立っていた。市内にあるお城の三の丸。外堀の角のすぐ内側に立っている。いわばお城の中に建っているようなものだ。大人になって城勤めができるとは、子供の頃は思いもしなかった。
「まねきねこが流れてしまわなければいいんですけど」
いつの間にかすぐ横に立っていた金子さんが言った。驚いて身を捩った。
「そうそう埋まってないでしょう。そんなの」
動揺しながら答えた。びっくりした。音もしなかった。
「分かりませんよ。何せ専用の電車が走っていたくらいですから」
金子さんが言うのは最近川で見つかった堆積物のことだ。川の改修工事の折に底から古い瀬戸もののまねきねこが出てきたらしい。
図書館のすぐ横を舐めるように走る城の外堀は今では埋まっていてただの空き地だが、昔は電車が通っていたのだと言う。なんの電車かというと、市外から焼き物を運ぶ電車である。まねきねこで有名な瀬戸ものの産地だ。
お堀につながる堀川はそもそも、城を作るための材料を運ぶために人工的に掘ったものらしい。よって下流は海にそのまま繋がっている。それを利用して今度は国産の焼き物を海外に運ぶための物流に使われたのだとかなんだとか。今では跡形もない。図書館横にある、言われてみれば駅の土台に見えなくもない空き地に看板が建っているだけだ。勤めはじめた時、通勤時に見つけて一度説明を読んだことがあるのでかろうじて覚えている。確か、通称があったはずだ。
「それって、あれでしょ、ええと……」
『覚えているぞ』と言うことをアピールしながら空を見る。
「『瀬戸電』」
間髪おかずに金子さんが言った。金子さんは地方史に詳しい。私もそこそこ読んだはずなんだけど。覚えた分だけ、忘れてしまう。特に最近、物忘れが増えた。
「まあ、今はあんまり調べる方もいないようですけどね」
金子さんが寂しそうに言った。思い出せなかった自分を恥ずかしく思った。
「早いとこ切り上げて帰りましょう。心配してますよ。コサブロー様とか」
「ああ」
また空を見た。これ以上荒れないでくれるとありがたい。コサブローは、雷が苦手なのだ。ひとりぼっちで雷鳴の響く部屋にいるのはさぞ不安だろう。説明し遅れたが、コサブローは猫である。年季の入った三毛猫の雄だ。アパートに一人暮らしの自分の唯一の同居人である。金子さんはなぜかコサブローのことを「様」付けで呼ぶ。ねこ好きなのか、丁寧なのかはわからない。
一瞬光って、雷鳴が轟く。
「ぎゃああ」と少し離れた休憩カウンターでパソコンをいじっていた森本君が悲鳴を上げた。長身の上、アフロヘアーなのでよく目立つ。入り口横に設置された館内休憩所兼カフェでアルバイトをしている大学生である。彼も雷が怖いのか、と思って目をやるとふかふかの頭に両手をやって
「俺、傘持ってくるの忘れたあ!」
と叫んだ。
「ひどい忘れ物ですね」
金子さんがズバリと言った。
「ひどい忘れ物だね」
私もうなずいた。いくら私でもそこまで物忘れはひどくない。ふと、コサブローに水をやってきたか不安になった。最近暑いせいか、本当に色々と忘れるのだ。電車が止まっているとなると、少しの道のりとはいえ、帰りが遅くなる。喉が渇いていたらかわいそうだ。ご飯は忘れずやったっけ。エアコンも。そういえば今朝はひどく蒸し熱かったから、起き抜けにほんの少し空気の入れ替えをしたのだった。台所にある網戸を少し開けた。それから会社の支度をして、家の鍵が見つからなくて遅刻しそうになって、慌てて家を出て。
嫌な予感がした。網戸。網戸は閉めただろうか。いや、それでも台所の戸は閉めたはずだ。多分。そう。そのはず。きっと、おそらく、間違いなく。でも。
就業と同時に図書館を飛び出した。風を受ける傘が邪魔なのでささずに走った。幸い、地下鉄は動いていて、私鉄も止まる前だった。汗と雨とでぐしゃぐしゃになりながらアパートに走る。玄関を開けると風が吹き込んだ。台所が雨で濡れている。『ひどい忘れ物』。金子さんの声を思い出した。
「コサブロー」
何度も名前を呼んだ。コサブローはいなくなっていた。
「猫ケ洞の王さま」目次
第1話 雨
第2話 コサブロー
第3話 森本君
第4話 迷い猫
第5話 ピースパーク
第6話 神頼み
第7話 金子さん
第8話 お殿様
第9話(最終話) まつとしきかば