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「猫ケ洞の王さま」第3話 【森本君】

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 翌日の気分は最悪だった。電気はつけっぱなしだし、廊下はびしょ濡れだし、足はむくんでぱんぱんで、身体中が痛かった。
 もう朝日が入る時分だったから、起き上がって部屋の電気を消すと、嫌に静かだ。なんだっけ、と一瞬首を傾げて、コサブローがいないんだったと改めて思い出した。お腹の底に冷たい水が溜まっているみたいだった。顔を洗って家を出る支度をした。

「大丈夫ですか、佐々木さん!」
図書館に出勤すると、入り口のところで金子さんに声をかけられた。私の顔を見るなり髪と肩掛けカバンを揺らして音もなく駆け寄ってくる。「どうして」と言いかけて、昨日の夜にDMを打ったことを思い出した。誰かに頼りたかったのだろう。気恥ずかしくて目を伏せた。
「昨日の返信ご覧になりましたか。市の動物愛護センターに届けてください。あと、警察の落とし物届けにもです」
金子さんが早口で捲し立てる。DMに返信をくれていたのか。スマートフォンを改めて見た。確かに、コサブローがいなくなったことを届けるようにと返信が来ていた。丁寧に動物愛護センターと県警のWEBページへのURLまでついていた。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
目を伏せたままお礼を言った。親身になってくれて、ありがたい。自分でもびっくりするほど元気が出ないのだ。
「大丈夫ですか?」
金子さんがまた聞いてくる。ビー玉みたいな、大きな目が私を見た。真剣な表情だ。なんだかコサブローがご飯をねだる時の顔に似ていた。
「休んだらどうですか?」
「猫がいなくなったくらいで、休暇は」
「体調、悪そうじゃないですか」
 苦笑いした。確かに、いいとはいえない。
「身体を休めるついでに、コサブロー様のことをちゃんと届けてください」
「ありがとう」
「あと、センターに『猫を探しています』のチラシを持っていくといいです。掲示板に貼ってくれます」
「そうします。……チラシ作んなきゃね」
「あ。それは大丈夫」
金子さんが右手の平を私の顔の前でひらひらさせた。下げていたカバンから大きな封筒を取り出して、私に押し付けてくる。
「作っときました」
 え? と声が出ないまま口を開ける。封筒の中を覗くと確かに中にチラシがあった。カラー刷りで、『探しています』の大きな文字とともにコサブローの顔写真が大きく載せてある。
「え、なんで写真……」
 どうして金子さんがコサブローの写真を持っているのか聞きかけたところに、背後から誰かの気配がした。振り向き切る前にわかった。大きなモジャモジャ頭。カフェのバイトの森本君だ。
「おはようございます」
いつになく礼儀正しく森本君が礼をした。変だ。普段は「どうも」くらいしか言わない。
「猫ですか。迷い猫」
森本君の痩せた手がぬるりと伸びて私の手からチラシを奪い取った。そのままチラシを両手で掴むと腰を曲げて、顔をくっつけて凝視した。
「『コサブロー』。三毛猫ですね」
頭を下げたまま森本君がぼそぼそつぶやく。ますます変だ。こんな不気味な子ではなかった気がする。どうしたんだ。おそるおそる声をかけてみる。
「う、うちの猫です」
「へえ」
森本君が顔をあげて私の顔を見た。瞳孔が開いていた。顔を近づけてくる。
「この三毛猫が、いなくなったんですね」
どんどん近づいて森本君の鼻が私の鼻のすぐそばまできそうになる。顔を近づけながら森本君が小さな声で何かを呟いているのが聞こえた。聞き取るのがやっとなくらいの、本当に小さな声だ。言い終わるか言い終わらないかのところで、突然森本君が「わあ」と大声を上げて飛び上がった。モジャモジャのアフロヘアーを両手で大事そうに抑えてしゃがんで言った。
「触らないでください!」
「いや、どうなってるのかな、と思って」
答えたのは金子さんだ。右手を首の辺りまであげたまま、手の平を握ったり開いたりして見せた。森本君の髪の毛をつかもうとしたようだ。

「とにかく、今日は休みましょう。ね」
恨めしそうに私たちを見上げている森本君を無視して金子さんが笑った。右手が今度は私の後ろに伸びて、ぽん、と背中を叩いてきた。
「なんてことはない。すぐ見つかりますって!」
そのまま図書館の入り口に向かって押してくる。押されながら中に入った。気分がだいぶ明るくなった。そうだ。とりあえず動いて、探そう。ウジウジしてもおんなじだ。本当は少し元気になったのを隠して、なるべく体調が悪そうなふりをしながら早退届けを書いた。できるだけさりげなく咳なんかもして見せた。上長に届けて、許可が出るまでの一部始終を、少し離れた席で金子さんがニヤニヤしながら見ていた。もういい大人なのに、イタズラでもしているみたいな気分だ。結局写真の入手方法は聞かないまま、金子さんから封筒ごとチラシの束を受け取った。
「申し訳ありません」
できるだけ丁寧に、同僚たちに礼をして持ち場を後にする。ロッカーでカバンに封筒を入れて、帰る出入り口の所でふとカフェの方を見た。
 モジャモジャ頭の森本君がじっとこっちを見つめていた。

「猫ケ洞の王さま」第3話