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「猫ケ洞の王さま」第9話(最終話) 【まつとしきかば】

第8話  目次

「お前、化け猫の関係者だそうだね」
 もはや、いつものとぼけた様子の影も形もない森本君が私を一瞥した。水浸しのTシャツから雫が垂れている。ボートの進行方向に見えてきた橋に向かって手を振ると、おお、と歓声が上がるのが聞こえた。
「残念ながらもはやこの辺りは我らの掌握下にある。何しろ我らは数が多い。観念して我らに渡せ」
「『渡せ』?」
「『名前』だ」
 『名前』? なんだろう。意味がわからない。
「持ってないと思います」
「いや。持っている。我らの同胞の中に見たものがいる」
「同胞?」
森本君急に脱力してへたり込んだ。ずるりと、アフロの生え際から神社で見た尻尾のようなものがのぞいた。
「この中に、見たものはいるか?」
森本君があさっての方向を見たままひとりでぶつぶつ言い出した。
「私ではない」「私も違う」「兄弟、お前はどうだ」
喋るたびに声色が変わり、声色が変わるたびにずるずるアフロから尻尾のようなものが出てきた。考えたくもないことだが、森本君のアフロの中には一匹どころではない何かがいるらしかった。
「私です」「確かに見たのか」「はい。あの三毛猫が、この人間に、確かに札を渡したんです」「間違いないな?」「間違いありません」
 『札』? 思わずパンツのポケットを押さえた。「神社に猫との思い出の品を持っていくといい」と森本君に言われて、私が持ってきたのは昔コサブローが持ってきたカルタだった。
「そこに何かあるな?」
森本君の目の焦点が私を向いた。アフロから飛び出ていた尻尾が一斉に引っ込んだ。森本君の細くて長い手が私に伸びる。
「よこせ」
 咄嗟に反対側のポケットに手をつっこんだ。さっき金子さんにもらった瀬戸ものの猫だ。
「森本君ごめん!」
 アフロに向かって放り投げる。流石に頭に当たったら大ごとだ。威嚇のつもりで投げた。すっかり湿ったモジャモジャ頭を瀬戸ものがかすめる。するとキイ、とかん高い鳴き声がして、ぼたぼたと何かがボートの外に落ちた。何か、というのはもう往生際が悪いかもしれない。毛むくじゃらで、尻尾が長くて、煤けた茶色の、ねずみだ。森本君の髪の中には何匹ものねずみが巣食っているのに違いがなかった。
「なんて酷いことを」
 森本君がボートから川を覗き込んだ。落ちたねずみたちを探しているらしい。ボートから身を乗り出す森本君の背中の向こう、川の先には次の船着場が見えていた。膝をつく。手を伸ばして、森本君の足元にあるロープに手を伸ばすと、森本君の足が素早く動いてロープの端を踏んづけた。
「そうだ」
 森本君が振り向く。右手に川から掬い上げたねずみを握っている。
「あなたも、同胞の中に加えてあげましょう」
森本君がねずみを握ったままこちらに寄ってきた。目を見開いたまま喋り続けている。
「何。怖いことはありません。我々をその髪に、一匹二匹仕込むんです。我々は、尻尾同士を繋ぐことでお互いの意思疎通を図ってきました。ネットワーク。いい響きでしょう。我々の、ネットワークに、あなたも加えて差し上げます」
 森本君のねずみを握った手を、掴んで押し戻す。同胞だかネットワークだかなんだか知らないが、髪をねずみの巣になんかされたくない。森本君が頭だけこっちに寄せて、耳元に話しかけてくる。
「拒むことはないでしょう。もうすぐ我らの勝ちなんです。札さえこっちに渡してもらえればそれで完了だ」
「札って、なに」
「とぼけることないでしょう。名前です。化け猫の。何百年にもわたって、我々は計画を進めてきました。物陰に隠れ、夜の闇に忍び、少しづつ人間たちの記録を食い破ってきたのです。ご存知でしょうか。あなた方はとても忘れっぽい。それともしれさえ忘れておいでですか。あなた方は、どこかに記録を残しておかなければ、すぐに大事なことを忘れてしまう。我々とは違います。ネットワークを通じて、永遠に、多くの同胞とつながり続ける我々とはーー」
 手が汗ばんできた。いかに森本君が痩せっぽちで筋肉がなさそうだからといって、男女では体格に差がありすぎる。歯をくしばった。必死で押し戻した。
「紙の記録、絵巻、神社の木札。我々にかじれないものなのどありません。最近は、金属のおもちゃに記録を残しておいでですねーー」
 ぶうん。と音がする。一斉に街のビルの灯が消えた。
「ーーほら。もうなくなりました。ケーブルを食い破った同胞がおります」
 ぶん。また音がして、あたりにまばらに灯りがつく
「……非常電源ですか。まあいい。いずれ尽きる。無駄な足掻きです。名前が、猫の名前の記録さえなくしてしまえば、あなた方はすぐにあの化け物のことを忘れてしまうでしょう。名を呼ばれなくなった猫はここに戻ってくることはない。我々の、勝利です」
森本君が手が私の頭に近づいてくる。「助けて」小さく声が出た。「助けて」誰にだ。誰に助けを呼んだらいんだ。じいちゃんは老人ホームだし、両親は実家だし。誰だ。他に誰がいるんだ。
「『ムネハル』さん」
咄嗟に出た名前だ。誰だ。誰だっけそれ。
「助けて、ムネハルさん!」

「はいよ」
 聞き覚えのある声がして、森本君のアフロの後ろに男性の顔が現れた。確か、今日、平和公園であった人だ。魚釣りをしていたおじさん。森本君が振り向く。
「やあ。女のこいじめたら、あかんね」
 おじさんが森本君に向かって手を振る。
「お前……!」
 森本君が向き直り、おじさんに向かって体当たりをし、当たらずに、水飛沫をあげて川に落っこちた。
「あーあ」
 おじさんが川を覗き込む。朝と同じく和服を着ていた。見ると、ずいぶんいい生地のようだ。細かい模様が薄青く光って見える。光って見える? おじさんがこちらを見た。
「幽霊に体当たりしちゃあ、そうなるのも世話ないわ」
そう言って、にい、と笑った。幽霊。そうか。確かに墓地に家がとかなんとか言っていたような気がする。おじさん、幽霊、ムネハルさんがもうすぐ近くに見える岸辺をさした。
「とりあえず、川からおりよまい。あんまり手伝いはできんけど」


 触ったこともないボートのモーターをいじって、ロープを護岸に引っ掛けて、ようやく船着場に結ぶ。ムネハルさんは本当に手伝わなかった。見ていただけだ。
「ようやった。ようやった。あっぱれ」
 ひいひい言いながら岸によじ登るとお褒めの言葉をいただいた。お墓の看板を思いおこした。ムネハルさんがいたのは、尾張徳川家第7代当主の徳川宗春の墓があった場所だ。
「ちょうどよかった。あんたに、いいこと教えてあげようと思っとたんよ」
 川から上がる階段を登っていると、ムネハルさんがふわふわと浮きながら上機嫌でついてくる。本当に、幽霊なのは間違いなさそうだった。全く怖くはないが。
「わしも、昔、猫をかっとった話、したでしょ。野良猫だったんだけど、一回、わしがお城から出られんなって、会いに行けんようになったことがあったんよ。わし、寂しくてね、ばあやに相談したんだわ」
 『城』。さらっと城だとムネハルさんが言った。間違いない、のかもしれない。にしてもその話、どこかで聞いたことがあるような。
「そしたら、いい呪いがあるって。札に、和歌を書くんだそうだわ。紀貫之の。知っとる? 『立ち別れ 稲葉の山の峰に生ふる』。知っとる? 百人一首?」
 『百人一首』。ポケットを探った。コサブローにもらった札を取り出した。いつもより暗くなった電灯の灯りで照らす。達者な筆の字で文字が書いてある。『たちわかれ いなばのやまの みねにおふる』。百人一首の書かれたカルタだとてっきり思っていた。ムネハルさんが札を覗き込んでくる。
「なんか、わしの字ににとるね」
 そのまま札をひっくり返した。裏に書いてあることがあるのだ。名前のような。『紀貫之』ですらなかったので、これも落書きだとばかり思っていた。ムネハルさんが首を傾げて、文字を読んだ。
「『豆千代』? なんだね。それは」

「奪い取れ!」
階段の下の方から声がした。森本君が岸に這い上がってくるのが見えた。おお、と声がして、川の向こうから人が走ってくるのが見えた。札を握って、坂をのぼった。走る。遠くに広場と、金色の鯱の乗ったお城が見えた。
「懐かしいねえ」
ムネハルさんが嬉しそうに言った。にゃあお、と声がした。道の脇の草むらの中にで「にゃあお」と声がした。草むらから尻尾がのぞいた。ねずみのじゃない。もっとふわふわで踊るように動くやつだ。
「豆千代」
『コサブロー』と私が言うのと同時にムネハルさんが言った。二人で目を見合わせる。にゃあお。コサブローが鳴いて、私の足に背中を擦り付けてきた。
「違うか。豆千代はこんなに小さくない。『違う』?」
 ムネハルさんがしゃがんでコサブローの顔をみる。「にゃあお」とコサブローがまたないた。
「思い出した」
 ムネハルさんが透き通った手でコサブローの頭を撫でた。
「あったばっかりの頃はこんなに小さくてなあ、よく膝に乗せてやったもんだ」
 ゴロゴロとコサブローが喉を鳴らした。ムネハルさんがコサブローの頭に自分のおでこをくっつけた。
「幸せかい? 今の飼い主と一緒で」
 ムネハルさんの言葉にどきりとしてしゃがんだムネハルさんを見つめる。坂のすぐそこに森本君たちが走ってくるのが見えた。
「一回、すまんね」
 ムネハルさんが立ち上がった。右手で私の手の札を指した。
「それ、かして。わしのだで」
 差し出す。幽霊にもてるのかと思ったが、ムネハルさんが持った途端、札が青く光ってムネハルさんの手におさまった。
「嬢ちゃんに教えてあげるわ。迷い猫を戻すおまじない。札に和歌を書いて、裏に猫の名前を書いて、祈る。こんな風だわ」
 ムネハルさんが札を両手ではさんだ。目を閉じて唱え出した。
「『立ち別れ 稲葉の山の 峰に生ふる 待つとし聞かば 今帰りこむ』。すまんな。お役目だ。戻ってこい。『豆千代』」
 ムネハルさんが目を開けて、札を地面に、コサブローに向かって放り投げた。

 ぎゃおう。
 地響きのような。落雷のような声がした。足元を見た。確かにコサブローがないた。
 ぎゃおおおう。
 またひと声なく。下の人だかりが団子になっている。まだ向かってこようとするもの、怖気付いて逃げようとするもの、何人かが倒れていた。頭の中のねずみが逃げ出したのだろうと思った。
 足に何か柔らかいものがあたって、よろけて何かに倒れ込む。大きなソファーかマットレスのような。どんどん大きくなってきて、空が近づいてくるのがわかった。いつもより暗い夜空にいっそう明るい月が浮かんでいる。落ちないようにしがみつくと柔らかくて暖かった。鼻をつけると懐かしい匂いがした。コサブローを抱きしめたときの匂いだ。
「あんたは、猫なんだから」
 近くでムネハルさんが豆千代に戻ったコサブローに話しかける声が聞こえる。
「何を守らんでも、妖術なんかなくても、膝に乗ってゴロゴロ喉鳴らしときゃあええんだよ」
 その通りだ。私は思った。それで充分だ。山のように大きくなったコサブローの毛皮を撫でる。金子さんが『師匠』とよんでいたのも頷ける。本当に、コサブローは猫の王さまなんだ。そんな偉い猫だったんだ。それが、うちなんかに閉じ込められて、さぞ窮屈だっただろう。悲しくなった。涙が出た。どっと疲れが襲ってくるのがわかった。
「あんたもね」
 ムネハルさんの声が近づいて、ひんやりしたもので頭を撫でられたような気がした。瞼が重い。もう限界に眠かった。


 目を開けた。天井が見えた。飛び起きる。自宅のソファーだった。服装は出かけた時のまま。ポケットにはスマートフォンと、何も書かれていない紙の札があった。
 充電ケーブルを探しながら、片手でニュースサイト検索した。「名古屋で地震」「全市が停電」「堀川でねずみ被害」。記憶にあることはすっかり夢ではないようだった。ニュース写真のひとつにずぶ濡れで路上に寝転がる、もじゃもじゃ頭が見えたので画面を閉じた。顔がマスクされていても誰だか察しがつく。
『図書館、無事です』
 金子さんからのDMの通知だ。スマートフォンをようやく見つけたケーブルに繋いだ。DMを読むより先にやることがある。通勤カバンを探ってサインペンを取り出し、ポケットの中にあった札に急いで文字を書いた。

 ドアを開けて玄関を出る。札を両手に挟んで、目を閉じた。

「『立ち別れ 稲葉の山の 峰に生ふる 待つとし聞かば 今帰りこむ』。鰹節も、煮干しも、ちゅーるもある。冬はあったかいとこで寝かせてあげる。だから。できるのそれだけだけど、それでよければ、帰ってきて」
 目を開ける。名前を呼んだ。誰のでもない、自分の猫の名前だ。
「コサブロー!」

 にゃあお。

 足元で懐かしい声がした。

(終)

「猫ケ洞の王さま」 おしまい