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「猫ケ洞の王さま」第8話 【お殿様】

第7話  目次 第9話

 ーー昔、尾張の国の大きなお寺に一匹の猫がいましたーー。

 金子さんの金色の瞳が一度閉じてまた開く。さっきまでの橋の上の人だかりは嘘みたいに静かになった。ボートが夜の堀川を進んでいく。上の方のビルの明かりがまるで遠くに見えた。よく通る声で金子さんが話を続けた。

ーー甘えん坊で、怠け者で、おまけに食いしん坊の三毛猫です。名前すらない野良猫でした。

 猫がいるお寺はお堀の側にありました。夏になると猫はお堀を見ながら居眠りをすることに決めていました。水辺からひんやりとした良い風が吹くのです。時折、川遊びをする人間を見るのも楽しいものでした。分厚い絹に包まれた大福みたいな人間や、頭に何本も串の刺さったお団子みたいな人間、痩せっぽちで煮干しみたいな人間もいました。眺めているだけで飽きません。

 ある日、黒塗りの船が川上から流れてきました。程なくお寺の中が騒がしくなり、和尚さんやら小僧さんやらがわあわあ騒ぎ出して、猫を押し除けて門に並びました。門のある岸に結えられた黒い船から出てきたのはひとりのお侍でした。長い刀を腰にさして、猫にもわかるほどいい着物を着ていました。舐めたての毛並みみたいにツヤツヤな生地に、金色の糸が踊っています。
「よくお越しになりました」
 和尚さまが猫撫で声で揉手をしました。
「さあさ、こちらへ」
 小僧さんが本堂に先導します。
 お侍は頷いて、本堂の方に足を向け、ふと立ち止まりました。そしてしゃがんで、猫の方に向けて手を差し出して、にっこり笑って言いました。
「やあ、猫だ。こっちへ来い」

 それから、週に一度はお侍はお寺にやってきました。来るたびに、猫にお土産を持ってきてくれました。上等の鰹節や、煮干し、鯛や平目のアラのこともありました。見たこともないご馳走に、猫の目がクラクラします。もちろん、どんなにクラクラしてもしっかり食べました。猫が目を細めて夢中で齧るのを、お侍も嬉しそうに眺めてにっこりしました。

 お侍が来るのは決まって暗くなってからでした。ちょうどお寺の近くにある花街の提灯の灯りが着く頃です。お堀の川からお寺にやってきて、猫にお土産をくれたのち、お侍も提灯の灯りの中に消えていきました。なるで自分達と同じ猫みたいだと猫は思いました。仲間の猫たちはこの時分、灯りのついた路地を歩いては、頭にたくさん串の刺さった人間のメスたちにお菓子や魚を貰っていたのです。「花魁」と言うのだと仲間の猫に教わりました。鼻が曲がりそうなほどお香を炊いて、顔や手足に白粉を塗って、頭にさしたくしは竹や杉ではなく鼈甲でできているんだそうです。「人間なのに格子のはまった檻に入って、なんだか可哀想だから遊んでやってる」と仲間の猫は言っていました。花街から帰ってくるお侍もお香や白粉の匂いがしました。きっと、格子の中の人間と遊んで、お菓子やお魚を貰っているに違いありませんでした。

「しばらく『キンシン』になった」
ある日お侍が和尚さんに言いました。「は」と和尚さんが目を見開いて「はは」と頭を下げました。「おいたわしい」と付け加えました。『キンシン』の意味が猫には分かりませんでしたが、和尚さんの様子からして、とても悪いことだということはわかりました。

 果たして、その通りだったのです。
 次の日から、お侍がお寺に来なくなりました。一週間経っても、一ヶ月経っても黒い船は流れてきません。
 ぐう、と猫のお腹がなりました。鰹節や煮干しや鯛やひらめのアラのことを思いました。「にゃあお」と空に向けてひと声ないて、湿った鼻を夜空に向けました。川の水の匂い、お寺の線香の香り、人間の汗やタバコの煙。目をつぶって注意深く鼻をひくひくさせました。お堀の川のずっと奥、上流の方から懐かしい匂いがします。お寺にくるどんな立派な人間もつけていない、上品で上等の香りです。見つけた。猫が再び目を見開くと、緑色だった目が金色に光りました。ひょいとお寺の門から堀川の岸に飛び降りると、堀川のへりの石垣を登り、石垣の途中で90度に向きを変え、体を横に倒したまま、まっすぐに上流に向かって走り出しました。

 猫は夢中でした。美味しい鰹節、カリカリした煮干し、魚のアラのいい匂い。それから食べている猫を見る、お侍の嬉しそうな顔。走って走って走っているうちに自分の尻尾が三つに割れていることも、むくむくと体が大きくなり始めていることにも気がつきませんでした。お侍の匂いが近づいてくるのが嬉しくて「ぎゃおん」と一声なくと、まるで嵐か雷のようでした。石垣をよじ登ると遠くにキラキラ光る金色の魚が見えました。立派なお城の屋根の上にそっくりかえってのっています。お侍はきっとあそこだ。野性の勘が、いえ、食いしん坊の腹の虫が言っていました。

「曲者だ!」
遠くで声がしました。松明や、刀や、槍を持った人間が追いかけてきました。怖い。猫は思いました。でも今更戻れません。匂いはもうすぐそこなのです。深いお堀を飛び越えて、沿った石垣をよじ登り、屋根の瓦を何枚かおっことしながらお城の窓に頭から突っ込みました。悲鳴が聞こえて、物音がして、それから、目もくらむほど立派な着物をきたお侍が現れました。一瞬驚いて、それからにっこり笑って猫に向かって名前を呼びました。野良猫だった猫に、お侍がつけてくれた大切な名前ですーー。


「ーー名前」
 金子さんが言い淀んで、黙ってしまった。
「金子さん?」
「名前は、割愛しましょう」
 にこりと笑って、続きを話しだす。


ーーお侍は、尾張国のお殿様だったのです。お忍びで、お寺の近くの花街にこっそり遊びにきていたのでした。お城に謹慎になったお殿様を背中にのせて、猫は毎晩夜の街を走ってまわりました。何しろ不思議な力で、夜空を飛ぶように走り回れるのです。「化け猫」。お城のものがそう呼ぶのをお殿様はきつくとがめました。ちょっと変わっているけれど、大事な飼い猫でした。猫は幸せでした。今までで一番幸せだと思いました。お殿様がいつの間にか歳をとって、小さく萎んでいくのも気がつかないほどでした。やがてお殿様は寝床からあまり出てこなくなり、眠ったまま起きなくなりました。ご遺体が焼かれて、お殿様の姿がお城から消えると、猫はあの、お堀の近くのお寺の近くの空き地に寝泊まりするようになりました。お殿様がまた、そこにひょっこり遊びにくるような気がしたからです。

 戻ってきた猫の体はすっかり大きくなってまるで小山のようでした。じっとしたまま動かないので、背中には草木が生え始めました。異形のものでしたが、大人しい猫です。やがて周りの人たちがお供えをあげたり、おいのりをしたりするようになりました。鳥居が立って、賽銭箱ができて、まるで神社のようになりましたが、長い尻尾が時々揺れたので、お参りに来た人たちにもこれは猫だと分かりました。尾から猫だとわかるので、「おからねこ」とみんなが呼びました。やがてここの神社を皆「おからねこ神社」と呼ぶようになりました。今の大直禰子命神社ですーー。


「それ、さっき森本君が出たところですか?」
 聞き覚えのある名前に思わず話に割って入る。
「さっき森本君が出たところですね」金子さんが澄まして答えた。「あそこは、師匠の昔の住処なんです」
「師匠って、つまり」
「コサブロー様です」
「今の話、コサブローの話だってことですか?」
「そうです。私が昔師匠から聞いた話です」
「コサブローは、ただの猫ですよ?」
「そう。今は。今はそうですね。続きをお聞きになられますか?」
「……はい」
 私は答えた。ボートはまっすぐお堀を上っている。途中で降りるわけにもいかないだろうし、他にすることもない。
「承りました」


ーーある日、神社にお願いに来るものがありました。
「コメが不作だというのに、ねずみの害がひどい。どうにかならないものだろうか」
 猫、つまりコサブロー様ですね。コサブロー様の耳がぴくりと動きました。もう何年も動かしたことのない耳でした。何しろ、毎日のように人間たちが自分勝手な望みや悩みを自分に話しにくるのです。すっかり飽き飽きしていました。自分は猫なのです。どんな悩みもどうにもすることはできません。でもこればっかりはちょっと違いました。ねずみなら、どうにかできるかも。
 山がぐらりと動きました。お願いに来た人間が驚いて腰を抜かしました。にゃあ。コサブロー様々なはひと声ないて、それから名古屋の街中を走り回りました。金の魚をのせたお城は相変わらず建っていました。いい加減コサブロー様にも、お殿様がもう戻らないことはわかっていました。

 街のねずみをすっかり追い払った後、コサブロー様は神社に戻るのをやめました。なんだかすっかりくたびれた気持ちでした。なるべく人里離れたところに引っ込んで大人しく暮らそうと思いました。溜池の辺りでうずくまったので、あたりの人がその池を猫ヶ洞池と呼ぶようになりましたーー。


「ーーちょっと失礼」
 金子さんが話をやめて立ち上がった。ボートの底から紙袋を拾い上げて、中から取り出したものをポイポイと川に放りんだ。
「なんですか?」
 答える代わりに金子さんが紙袋からひとつとってこちらに放った。受け取る。小さな瀬戸ものの人形だった。
「まねきねこ?」
「『まねき』ねこじゃありませんよ。手、あげてないでしょ。『まねかない』ねこです。コサブロー様のかわりです。私の仕事です。最近、ちょっと引き上げられてしまいましたが」
 川から焼き物が大量にあがったニュースを思い出した。
「歴史的な遺物だと思ってたのに!」
「歴史的は歴史的ですよ。昔からやってますから」
「川にゴミを投げてはだめですよ!」
「ゴミではありません。お守りです。ねずみよけなんです」
「ねずみ?」
「話を続けましょう」
金子さんがまたボートに腰を下ろす。


ーーひとつ、問題がありました。追い出されたねずみたちです。何しろ突然化け猫がやってきて、住んでいたところを奪われたのですから、恨むのも当然でした。
 逃げたねずみたちの族長は誓いを立てました。必ず、もとの住処を取り戻そう。そして、あの化け猫に目にもの見せてやろう。

 コサブロー様が池のほとりで居眠りを始めると、途端に追い出されたねずみが戻ってきました。今度はお米だけでなく、家の柱や家具までも齧り始めました。コサブロー様は慌てて目を覚まし、ぎゃおう、と一声なきました。ねずみたちは慌てて逃げ去ります。けれどすぐに戻っきます。またぎゃおう。繰り返し。埒があきません。数が多すぎます。

 コサブロー様は考えました。相手の数が多いならば、こちらの数も増やそうと。ぎゃおう、とひとこえないて、仲間の猫に呼びかけました。ねずみたちから街を守ろうとーー。


「ーーその呼びかけに答えた猫のひとりが私です。『金子』はもとの飼い主の苗字です。私は元々、お城の書庫の番猫として飼われていたんです。コサブロー様に妖力を分けていただいて、随分と長生きをしてしまいましたが。見えますか?」
 金子さんが長く伸びた髪に自分の右手を差し込んだ。そのまま上に上げるとうっすら白く金子さんの右耳が見えた。上の方がちぎれて欠けているような。
「このように力のある猫が耳の端を噛むことで、猫は妖力を得るんです。コサブロー様は猫ヶ洞に来た猫全てに自分の妖力を惜しみなく分け与えました」
「それ、名古屋化け猫だらけってことでは?」
「そうかもしれませんみゃあ」
 金子さんが髪を上げた手を下げた。話を続ける。
「コサブロー様に妖力を分けられた猫たちは、それぞれ自分の場所に帰りました。あるいはお屋敷に、あるい蔵に、私のように書庫に戻ったものもおります。皆、街の、自分の飼い主が大事にしていたものを守りに戻ったのです。それからしばらくしてコサブロー様はまた姿を消しました。私たちもどこに行ったのかわかりませんでした。私が佐々木さんを見つけるまではね」
「結局、コサブローは化け猫だってこと?」
「そうなんですけど、そうでもないです」
「『そうでもない』?」
「いいですか」
 金子さんがまた立ち上がって、ひょい、と飛び上がった。着地した時には右耳の掛けたトラ猫がいた。
「私たちは、このように変化することができます。はい」
 トラ猫が喋って、また飛び上がる。さっきの通りの金子さんで着地して、ボートがぐらりと揺れた。
「失礼。少し乱暴なことをしてしまいましたが、コサブロー様も化けたのです。猫に。それも普通の猫にです。お写真をお持ちですね?」
 言われて、スマートフォンを取り出した。アルバムにコサブローの写真がずらりと並んでいる。金子さんが自分の右耳を引っ張った。
「今のコサブロー様は、耳がどこも欠けていない。妖力のない普通の猫に化けているんです。そして、残念ながら、ご自身の力が強すぎて、『化けている』ことそのものをお忘れのようです。自分が元々なんであったかを」
「忘れてる?」
「そう。それがために、妖力を失ってしまっている。悪いタイミングが重なりました。さっき見たでしょう。ねずみたちがもう気づいて攻めてきている。ここはひとつ、ご自身のことを思い出していただかないと、街中が齧られかねません」
「言ってあげたらいいです? 『思い出せ』! って」
「ただの猫に、そんなこと言ってもね」
 金子さんがモーターをいじった。ロープを出して、岸辺の岩場に投げて引っ掛け、引っ張って寄せた。
「つきました。図書館です。私は私で、書庫を守らないと」
 引っ張ったロープを渡される。握っていると金子さんがひらりと岸に飛び乗った。完全に猫の身軽さだった。
「ロープをこちらに」
 金子さんが手を伸ばす。ロープの先を渡そうとすると、ボートが岸から離れていった。
「森本!」
 金子さんが私の背後を見て悲鳴のような声を上げた。振り向くとボートへりに人間の手がかかっていた。船体が丸ごと斜めに傾く。へりの向こうに見慣れたモジャモジャ頭が見えた。
「今いきます!」
 金子さんがいうよりも早く、森本君がボートの中にずるりと登ってきた。這いずりながらモーターを触る。ボートがまた動き始めた。
「この人間の頭は便利だな。防水になる」
 森本君が体を起こしたアフロの毛を右手で軽く絞った。ロープを私から奪い取ると乱暴に引っ張る。岸の船着場からロープが外れるのが見えた。
「よくもやってくれたね、猫野郎」
 森本君が岸に向かって叫ぶ。金子さんは完全にこちらに飛び移るタイミングを見失ったようだ。森本君の指が、船着場の向こう、図書館の方をまっすぐ指した。
「あの化け猫がいない以上、我らが同胞が、あそこに行っていないとでも思うのかい?」
 金子さんが振り返る。図書館の方向だ。向き直ってまっすぐ私に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 踵を返した。猫に変わった。壁を登って消えて行った。

猫ケ洞の王さま」第8話