見出し画像

「猫ケ洞の王さま」第2話 【コサブロー】

第1話  目次 第3話

 台所の窓を閉めて、四つん這いになって床を拭いた。今すぐ探しにいくべきか考えた。外はひどい雨だ。呼んでも聞こえないだろうし、コサブローもどこかに入り込んでしまっているだろう。力を込めて雨水を拭っているのが雑巾ではなく台拭きだと気がついて、それでもかまわないやと後退りする。引きずった膝の跡がついた。自分自身がずぶ濡れだった。何が雑巾だかわからない。

 今すぐ探しにいくべきだ。いや、どう考えても今じゃない。でもすぐに探さなくては。まだその辺を彷徨いているかもしれない。違う。窓を出て行ったのは私が帰るずっと前だ。立ち上がってコップで水道の水を汲んだ。ひとくち飲む。落ち着かなくては。

 風呂場のお湯を入れた。床に足跡がついた。拭かずに、また台所で水を飲む。動悸がする。一瞬、コサブローが道路で車に轢かれる姿が脳裏によぎった。

 大丈夫。自分に言い聞かせる。コサブローは賢い猫だ。今頃どこか安全な場所で居眠りでもしているに違いない。車にも、雨にも濡れない安全な場所だ。

 外が光って、また雷が鳴る。

 濡れている服を脱いだ。体にまとわりついて、あちこち擦り傷ができていた。雨の中走って来たからだ。そうだ。雨だ。しかも大雨だ。よりにもよってなんでこんな大雨の日に。どうしてうちにいちゃダメなんだ。全然賢くない。コサブローの阿呆め。

 ぐっしょり濡れた服を団子にして、抱えて脱衣所まで歩く。また床に足跡ができた。知るもんか。団子を洗濯機に放り込んで、まだお湯のたまっていない湯船にもぐりこんだ。お湯に浸かったところだけ刺すように熱い。体がすっかり冷えていた。しゃっくりが出た。泣いていた。どうして窓を閉め忘れちゃったんだろう。どうして出て行っちゃたんだろう。うちじゃ、嫌だったんだろうか。

 そうかもしれないな。

 ふと思って、まだ腰までも浸かれないお風呂のお湯をすくって顔にかけた。

 コサブローは、元々私が飼い始めた猫じゃない。祖父の飼っていた猫だ。祖父が大須で本屋をやっていたころ、看板猫としてお客さんにかわいがられていたらしい。腰と膝を悪くした祖父が、商売が振るわなくなったのも手伝って店を畳んで老人ホームに引っ越すときに、私が引き取ることになった。住んでいたアパートがオンボロでペットを飼ってもよかったからだ。気性が優しくて、滅多に鳴かないので助かった。トイレの躾もちゃんとしていた。あまり甘えてはこなかったが、家に帰ると出迎えてくれる何かがいるのはいいものだ。帰るといつも尻尾を立てて足にまとわりついてきた。触れる毛並みがつるつるしてくすぐったかった。

 よく、窓の外を見ていた。職場の人に聞いてみたが、えてして猫はそういうものらしい。好奇心が強いのだそうだ。
 私は違うんじゃないかと思っていた。きっと外に出たかったのだ。そもそもコサブローは捨て猫だったと祖父から聞いた覚えがある。近くの神社で拾って来たらしい。確か昔、私のことも神社で拾って来たのだと言って祖父から泣かされた覚えがあるから、タチの悪い嘘かもしれないが、コサブローが神社にいた猫だというのはどこか納得できる。どこか古風で、変な猫だった。

 例えばコサブローが来て間もない頃、「猫は害獣を捕まえると、褒めてもらいたくて飼い主のところに生きたまま持ってくることがある」と職場の人から聞いていて、生きたネズミや蜘蛛でも持ってこられたらかなわないなと毎日怯えて暮らしていたが、コサブローが持ってきたのは鍵やらパスケースやらハンカチだった。みんな私がどこかで無くしたものだ。おそらく、部屋の隅っこで忘れ去られていたのを見つけておもちゃにしていたのだろう。あんまりよく持って来てくれるので、私が無くしものをしても探さなくなったくらいだった。「そのうちコサブローが持って来てくれる」と思うからだ。

 そういえば、無くしものじゃないものを持って来てくれたこともある。小さな、カルタみたいな札だった。加えて差し出してくるので受け取った。古いものだったと思う。墨で落書きみたいなものが書いてあった。家の引き出しにとっておいた。コサブローが持ってきたものだから、多分何かの値打ちものである。

 ようやく胸の辺りまで浸かれるくらいに溜まってきたお湯に、腰を落として沈み込んだ。体が温まって、落ち着いてきたと感じた。とりあえず、今日は寝よう。朝、晴れていたら近所を探そう。残りは、また考えよう。

 風呂から上がって、体を拭いた。廊下の足跡にため息をついた。寝巻きを着て、スマートフォンで「コサブローが逃げた」と金子さんにDMを打った。受信
チェックも既読確認もしないままアプリを閉じてベッドに放り出し、自分も倒れ込む。腕を伸ばしてすぐ横のシーツを叩いた。いつもならコサブローがそこに寝る。
「コサブロー」
 小さく呼んでみた。目をつぶると意識が遠のいた。とても疲れていた。

 「猫ケ洞の王さま」第2話