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ショートショート 裁ちばさみ【ショートショート100|No.29「はさみ✂︎」|1,311文字】

 夕暮れ時。仕立て屋の安藤さんが布の寸法を計っていました。綿麻のツイル生地。シャツの注文品です。少し分厚い生地ですが、やぼったくならないよう、型紙を工夫しました。週末にはお客さんのところに届けなくてはなりません。

 型紙をのせてチャコでなぞって、側の箱から古い裁ちばさみを取り出しました。鋼でできています。安藤さんのおじいちゃんの代から使っているのもでした。ちょっと重いけれど、よく手入れされているので切れ味は抜群です。はさみを横にたてて、片方の刃を布ののった机の上につけながら、刃と刃の間に布をはさんで押すようにはさみをすすめると、すーっと、音もなく布が切れていきました。

 からん、と入り口の扉が開く音がして、安藤さんは驚きました。もうとっくに店は閉まっています。ちょっと、と言おうとして、入ってきた人の足がないのを見て驚きました。女の人の幽霊でした。
「もう閉店だよ。」
 毅然と、でも、こわごわ、安藤さんが言いました。
「申し訳ありません。」
 幽霊が消え入りそうな声で言いました。音もなく安藤さんのすぐ目の前まで飛んできて続けます。
「あなたに折いって、お願いごとが。」

「だめだよ。」
 安藤さんははっきりものを言う人でした。
「お店はもう閉まっているし、幽霊のお願いなんてろくなことがないんだから。」
 幽霊はちょっとめんくらいました。けれど、せっかく出てきたんです。あわてて安藤さんに畳み掛けます。
「ほんの少し、ほんの少しでいいんです。」
「だめだめ。」
 安藤さんははさみを握りなおしました。
「それ、それです。裁ちばさみですよね。」
 幽霊が言いました。安藤さんの手のはさみを指差して言います。
「それで、あの人と私の悪縁を断ち切っていただけませんでしょうか。」

「だめだね。」
 またきっぱりと安藤さんが言いました。
「裁ちばさみは繊細なんだ。布以外のものを切ったら、あっという間に切れなくなっちまう。それに、その『たつ』じゃないと思うよ。」
「これ、これです。」
 幽霊が必死で右手を差し出しました。右手の小指に赤い糸のようなものが結びつけられていました。
「これが、この糸が今生の悪縁。これが生者であるあの人と繋がっているがために、私は黄泉の国に旅立てないのです。」
 安藤さんは首を傾げました。国語が、苦手なのです。けれど、糸なら切ってもいいんじゃないかな、とちょっと思いました。それに、幽霊が随分必死でかわいそうにもなってきていました。

「今回だけだぞ。」
 なるべくしかつめ顔が言うと、裁ちばさみでちょきん、赤い糸を切りました。
遠くで、鐘の音が聞こえました。甘い香り。白い花が降ってきました。「ありがとう。これで因縁が断ち切れました。」と幽霊は満足そうに言うと、光って、霧のように消えました。

 安藤さんがくしゃみをしました。花粉症なのです。店の中で成仏しないでほしい、と小さくつぶやいて、布に散らばった白い花を払いました。
 改めて裁ちばさみを握りなおし、布を切り進めようとします。
「……切れない。」
 赤い糸はやっぱり普通の糸ではなかったようです。すっかり、切れ味が悪くなっていました。
 明日、とぎに出さなければ。大きなため息をつきました。

 ショートショート No.334

NNさんの企画「100のシリーズ」に参加しています。
今回のお題はNo.29「はさみ✂︎」です。
前回のお題No.44「見たことがない」