文化文政のフィールドワーク
きのうの投稿した長女所蔵の『会えるかも!?妖怪ずかん』(あかね書房、2020年)も、やっぱり「牛鬼」を取り上げています。水辺に現れて人や動物に害をなす有名な激ヤバ妖怪で、本書の評価は「危険度★★★★★」「友好度★」。三重以西、近畿、中国、四国、九州に伝説があるので、「西日本のあちこちに出現」と書かれています。
東日本ですと、東京に、浅草の牛鬼伝説があったりしますが、しかし『新編武蔵風土記稿』(1803~29)の記事は「牛鬼の如き異形のもの」、鎌倉時代の『吾妻鏡』(1300頃)の記事は「牛の如き者」であり、牛鬼とは違うもの。出現して起こった事象も上の牛鬼とは異なるので、やはり別物なのでしょう。
――と、思いながら、浅草寺さんのホームページを見たら、その伝説に触れられていて驚いたのです。
ところが、そこには「鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には〈中略〉建長3年(1251)、浅草寺の食堂に暴れ牛が現れて怪我人を出したという記事もあり」と書かれていて、さらに驚きました。というのも、実際に『吾妻鏡』に書かれていることは、多少違うからです。
下記が、「牛の如き者」のことを記している『吾妻鏡』「北条本」巻第41、建長3年(1251)3月6日(新暦3月29日)の全文です。
出典は、国立公文書館(内閣文庫)蔵、重文の北条本(引用の句読点は私)。北条氏の金澤文庫本が文亀・永正年間頃(1501~1521)に書写されたもので、徳川秀忠に渡り、幕府の紅葉山文庫、そして内閣文庫の所蔵となったもので、「吉川本」(吉川史料館蔵、重文)、「島津家本」(東京大学史料編纂蔵、国宝)と並ぶ三大写本の一つです。なお、「吉川本」には「如牛者」の記事はありません。
さて、これをどう読めるかですが、徳川家綱の命で中野等和という人が振り仮名つき仮名本『新刊吾妻鏡』をつくり、寛文8年(1668年)に出版されています。底本は北条本です。こう書かれています。
北条本は「六日丙戌」ですが、正しくは「丙寅」。正されています。『国史大系』第33巻新訂増補の注によると、島津家本も「丙寅」です(島津家本は未見ですが、島津家本にもこの記事があるということでしょう)。
また、北条本は「牛如者」ですが、本書は「者」でなく「物」。「物の怪」の物。これも興味深い点です。
ところで余談ですが、『国史大系』第33巻新訂増補を含め、明治以降の翻刻を見ると「起居進退不成。居風云云」と句点が打たれており、そのために「起居進退ができなくなった。居風という」と読まれている例が見られます。
しかし、そうなると、「居風」の意味がわかりません。何らかの病気か症状の呼称に見えてきますが、多分これは中野等和の「起居進退居風をなさず」が適切な読み方である気がします。「居」は「いつもの・常の」、「風」は「ようす」であり、「立ったり座ったり歩いたりといったことがいつものようにはいかなくなった」という意味ではなかろうかと私は思っているのですが、間違っていたらごめんなさい。
話を戻し、底本を書き下しておくと、「六日 丙戌、武蔵国浅草寺に牛の如き者忽然として出現し、寺に奔走す。時に寺僧五十口計、食堂の間にて集会するなり。件の恠異を見、二十四人たちどころに病痾を受け、起居進退居風ならずと云々。七人即座に死すと云々」となるかと思います。
意味は、「建長3年3月6日丙戌、牛のような者が突然現れ、浅草寺の中を走り回った。そのとき食堂で約50人の僧侶が会議中だったが、その怪異を見て24人がたちまち病気になり、立ったり座ったり歩いたりといった動作がいつものようにはいかなくなったという。また、7人はすぐ亡くなったという」ということでしょう。
となると――、浅草寺さんホームページの記載は、もしかしたら、浅草寺さん内に「『吾妻鏡』のアレは、実際はこういう出来事だったんだよ」という伝承があるのかもしれない、という妄想が湧いてきます。
さて次に、というか、ついでに『新編武蔵風土記稿』(1804~29)ですが、巻之2、西葛西領本田筋に「牛御前社」の項に「牛鬼」の記述が見えます。牛御前社は、墨田川を挟んで浅草寺の対岸にある今の牛嶋神社です。私も行ったことがあります。撫でるとよいという牛の像があったりして、いっぱい撫でてきました。
意味は「建長年間に浅草川(吾妻橋から浅草橋あたりまでの隅田川)から牛鬼のような異形のものが飛び出し、島中を走り回ってこの神社に飛び込み、忽然として行方がわからなくなった。ただ、それは社殿に一つの玉を落としていった。いま社宝となっている牛玉がそれである、と記してはいるけれども、古いことなので確かでない事柄が多い」ということ。
しかし、『吾妻鏡』は「牛如者(物)」で、これも「牛鬼ノ如キ異形ノモノ」です。どのような姿だったのか、手がかりはないものでしょうか。
牛嶋神社の辺りは奈良時代、朝廷の牛牧場「牛牧」だったとか。古くから牛とかかわりのある土地のようです。また、『新編武蔵風土記稿』は神社の別当寺(神社を管理するお寺)牛宝山最勝寺の開闢縁起にも触れ、そこにも「牛」が出てきます。
意味は「貞観2年(860)、慈覚大師円仁が武蔵国に仏教を広めようとしていたとき、行き暮れてそこにあった草庵に入ったところ、昔の役人の位冠をつけた老爺がおり、『国土に悩乱あれば、私は首に牛の頭を載せ、悪魔を降伏させる形相を見せて国家を守護する。だから、私の姿を写してあなたに与えよう。私のために一軒の建物を建てよ』といって去った」ということ。
この老翁の正体はスサノオノミコトだったそうで、牛嶋神社の祭神です。また、頭の上に牛の頭を載せているとなれば、その姿は、スサノオと同一視される神仏習合の神「牛頭天王」です。
そのようなことから、「牛如者(物)」も「牛鬼ノ如キ異形ノモノ」も、私は勝手に「牛頭人身」のヒューマノイドを想像していました。
ヒューマノイドの牛鬼というと、例えば『綱絵巻』(室町時代)の牛鬼です。『太平記』(室町時代)には、渡辺綱(鬼の頭目・酒呑童子を倒した源頼光の四天王の一人)が牛鬼(頼光の病の原因とされた)の腕を切り落として持ち帰る話があります。一連の物語を絵に描いた『綱絵巻』では、その牛鬼は、黒い体の牛頭人身。
『地獄草子』などに描かれる地獄の獄卒、牛頭(ごず)・馬頭(めず)に似ています。
しかし、考えてみれば、そういう姿とは限らないわけです。
例えば、『吾妻鏡』や牛御前社の伝説にも十中八九取材したであろう曲亭(滝沢)馬琴(1767-1848)の『敵討枕石夜話』は、浅草の「鬼牛」が登場しますが、その挿絵(1808年刊、歌川豊広画)を見ると、黒い巨大な牛です。牛頭人身でも人頭牛身でもなく、ズバリ牛。
また、それがどういうものかというと、もとは死者の霊魂という設定で、恐ろしい話が語られています。
意味は、「海でおぼれて亡くなった人がうらみを持っていたとき、その魂魄(死者の霊魂)が獣と化す。これを鬼牛という。それは普通の牛より大きく、力は水牛の百倍。いつも水の中に沈んでいて、人に見られることはないが、もしこれを見たら、その人はたちまち死んでしまうといわれる」ということです。
娯楽作品としていかに面白くできるか工夫を重ねた結果の姿・設定なのでしょうが、人の想像とは、じつにさまざまだと思います。
ところで、『新編武蔵風土記稿』の先の引用に 「……と記したれど、古きことなれば、たしかならざること多し」とあります。お寺や神社の古文書・古記録を書き写すだけでなく、現地での聞き取り調査も行われたのかどうか気になるところです。
『新編武蔵風土記稿』だけでなく、地誌編纂は江戸時代、現地調査が重視するようになったといわれます。それはなぜであり、その方法はどうであったのかということも、大変興味深いところです。
『新編武蔵風土記稿』は、松平定信の命により、年齢が滝沢馬琴の一つ下の儒学者・林述斎(1768-1841)が享和3年(1803)に着手。中国方志(中国の地方誌)を研究して準備しつつ、文化7年(1810)、昌平坂学問所に地誌調所を開設し、武蔵野国は翌文化8年(1811)から文政7年(1824)まで14年かけて調査したそうです。草稿は文政11年(1828)に完成。
これを早いとみるか、遅いとみるか。ぜんぜん根拠のない話ですが、早いような気がして、すごいなあと思いました。
また、現地での聞き取り調査に関しては、最初は代官所などを通じ、江戸に居ながらにして資料を集めようとしたがうまくいかず、遅くとも文化11年(1814)には地誌調出役が現地に赴き、直接、土地の古老や村役人から聞き取りを行う方法が取られているとのこと(『地方史事典』)。
そして現地調査の方法は、最初の頃は、聞き取った内容を村など調査を受けた側に明細帳をまとめさせ、後日提出させることがあったそうですが、文政5年(1822)頃になると、地誌調出役が事前に明細書の雛型を各地へ示し、現地での調査の際、それを提出させたうえで聞き取りを実施するようになったということです。
『新編武蔵風土記稿』に続く『新編相模国風土記稿』では、武蔵国では行わなかった「絵図の収集」も始めたといいます。常に実際に動きながら試行錯誤し、よりよい調査方法を考え、変えていったのかもしれません。
聞き取り調査の前に明細書をまとめておいてもらうのと、聞き取り調査のあとでまとめてもらうのとでは、起こることは違ってきます。また、地図などのイメージを集めるかどうかの違い。
「文化文政のフィールドワーク論」といってもいいでしょうか、何か具体的なことがわかるのなら、現代においても参考になるかもしれず、興味は尽きません。
追記:先月6月13日から逸翁美術館(阪急文化財団)が「デジ絵巻」を開設され、酒呑童子の話の最古の絵巻物『大江山絵詞』全2巻(重文)が公開されていて素敵です。