良寛さんと貞心尼さんの衝撃
「衝撃」といっても、私の長年の思い込みに起因する、ばかばかしい話なのですが――。
良寛さんを知ったのは、幼い頃に読んだ絵本でした。今はもういい歳になりまして、多くの人が良寛さんの生き方や境涯に関心を持つことに対し共感も理解もできますが、幼い私は、子どもたちとかくれんぼに興じ、身を隠しているうちに眠ってしまった話など何も面白いとは思えず、また、子どもと遊ぶ様子が子どもそのものであったというのも、それのどこが好ましいのか、さっぱりわかりませんでした。私が良寛さんに少し興味を持ったのは、それから30年近く後のことです。しかし、興味を抱いたそのきっかけというのが、また相当にばかばかしいもので、「良寛さんは19世紀の人である」という事実に衝撃を受けたことでした。幼い頃に接した絵本の絵の雰囲気のせいなのか、良寛さんは何百年も前の人なのだろうと、私はずっと思い込んでいたのです。「最近の人」とまでは思いませんが、意外に遠くない昔の人ということで、とても驚きました。
良寛さんが亡くなったのは、天保2年(1831)正月6日だそうです。享年74。生年月日は記録がないようですが、このご遷化の記録から逆算し、生誕は宝暦8年(1758)と推定されています。生誕地は今の新潟県三島郡出雲崎町。最近は今春、「良寛牛乳」で知られる株式会社良寛(本社・出雲崎町)が破産したことで報道に載った旧天領です。
良寛さんが出雲崎を出たのは出家して4年目の安永8年(1779)であり、玉島の円通寺(岡山県倉敷市)で修行し、各地を旅した後、越後に戻ったのは寛政8年(1796)頃と考えられていますから、子どもと遊び、多くの詩をよみ、また多くの書をものするといった我々が知る良寛さんの活動は19世紀のことということになります。
良寛さんは禅僧であり、つまりそれは仏や祖師の教えにしたがい、真理にかなった生き方をしていくものだと思いますから、時代がどうこうという話でもないのでしょうが、当時に関する私の個人的な時代像といえば、例えば、フェートン号事件(1808年)があったり、シーボルトが来日したり(1823年)、幕府が異国船打払令を出したり(1825年)と、一面ではそういう時代です。あるいは伊能忠敬(1745〜1818)が日本中を測量してあの地図を仕上げ、杉田玄白(1733〜1817)や平賀源内(1728〜1780)が登場し、近藤重蔵(1771〜1829)や間宮林蔵(1780〜1844)が北方を探検した。そのような時代にあって、良寛さんは越後で庵に住み、乞食の生活を送り、子どもたちと遊び、数多くの詩歌と書を残し、お寺の住職になることもなかったわけです。良寛さんの葬儀が行われた徳昌寺というお寺にある過去帳には「大愚良寛首座」と記されています。首座、つまり修行僧の第一座、筆頭として生涯を通したということなのでしょう。禅僧として、そこに何もおかしいことはないのでしょうが、私が良寛さんに興味がなかったばかりに室町時代くらいの人ではないかと勝手に思い込んでいたものですから、19世紀の人とわかって衝撃を受けたという次第です。
良寛さんを何百年も前の人だと思い込んでいたせいで、さらに衝撃的だったのは、70歳の良寛さんを訪ねて来た貞心尼(1798~1872)というかたが、明治時代まで生き、明治5年(1872)に75歳で遷化されているという事実でした。
貞心尼さんが良寛さんを訪ねてきたのは30歳のとき。良寛さんに歌の教えを請いたいと思っていたようです。良寛さんが亡くなるまでのわずか4年間でしたが、お二人は歌だけでなく仏道においても、深い心の交流を持ったものと考えられています。
貞心尼さんの著作である『はちすの露』は、良寛さんの略伝や、貞心尼さんが収集・整理した良寛さんの詩歌、貞心尼さんが良寛さんと交わした数々の歌などが収録されています。完成したのは良寛さんが亡くなって4年後の天保6年(1835)5月だそうです。貞心尼自筆の『はちすの露』は現存しており(柏崎市立図書館 中村文庫蔵)、それは貞心尼さんが本書をいつも大切に所持していたからだともいわれています。
良寛さんがいた場所の近くにある、あるお寺のご住職さまが、以前、「私が子どもの頃、良寛さんに会ったことがあるというおばあさんが近所にいたんですよ。でも、あとで考えたら、さすがにそれはないんじゃないかと(笑)」とおっしゃっていました。たしかに、それはそうだろうと私も思いましたが、さらに考えてみれば、良寛さんがそう遠い過去の人ではないという感覚が、あるところにはあるのではないか、と思えてきます。
また、良寛さんのいた地元には、良寛さんがどこそこで立ち小便をしていたとか、お風呂に入っていないからか悪臭がしたとか、軒先の野菜を持っていかれたとか、変な話も伝わっていたりするという話をお聞きしたことがあります。これらの言い伝えの存在を私は確かめていませんので、言えることは一切ないのですが、もし本当にそのような言い伝えがあるのならば、そうした話があるうちは、良寛さんはそう遠くない時代の人であり続けているということなのだろう、という気がするのでした。
オチも何もない話ですみません。(了)