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5月6日:けテぶれ仙人と話しながら考えたテセウスの船と河川の話。

おはようございます。

順調に巨人の進撃を受けているへいなかです。今13巻。楽しんでますが、軽く仕事に支障をきたしています。

さて今日は、先日のトークセッションから考えたことについて。結論はたぶん「動きそれ自体が本質」というちょっと小難しい話になると想います。

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5月2日夜、僕はけテぶれ仙人こと葛原先生とお話してました。

こちら↓からまだ録音が聴けるかもしれません。

スペースでも話したけど葛原さんとはかれこれ3年以上のお付き合いで、実は葛原さんの奥さんともお話させていただいたことがある。

学ぶ力と態度を養い、自立した学習者を育てていくための様々な理論・手法を考えている葛原さん。工藤雄一さんや陰山英男さんも推すMr.けテぶれ。

きちんと二人で話す機会はなかったけれど、ツイートを見ながらいつも刺激をもらってた。法務教官時代には彼の提唱している「けテぶれ」を少年院で導入したこともある。

そんな彼が先日、教育の目的とされる「人格の完成」について、思索が一段落した旨のツイートをしていた。少年院の中で全人格的な関わりとしての矯正教育をず〜っとやってきた僕。「こりゃ語り合わないと!」と思って連絡し、あっという間に実現した。

あっという間の一時間。共感と驚嘆の嵐だったわけですが…録音はいずれ聞けなくなる。改めてここに、可能な範囲で書きとどめておきたい。

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葛原的「人格の完成」論

自分は自分でいい。

他者との違いをきちんと認識した上で、自他に対してその存在を否定することなくただそこに在る…そんな状態を「人格の完成」と言うのではないか…

それが葛原さんのたどり着いた答。

学級の中で、それぞれが独立した人格としてそこにいて、それぞれがただ自分の素直な心に従ってやりたいことをやる。そんな状態が心地いい。相互に過度な干渉や否定的態度を取ることなく場を共有できている状態がいいのではないか…。

そんなことをおっしゃっていた。

それを聴きながら僕は、当直の時の少年院の寮内を思い出していた。

寮に1つしかないテレビ。それを見ながらのんびり過ごす人がいる横で、新聞を読む人、筋トレする人、僕に質問や相談をぶつけに来る人がいて…それぞれの考える今を生きている。

力むことなくそこにいて、個々人がまとう空気も、その場自体の雰囲気もまろやかになっている。

そんな時、とっても居心地がいいし、その場にふさわしくない反則行為などの違和感にはとっても敏感に反応できる。

葛原さんにとっての「人格の完成」とはそうした集団と個のバランスが取れている状態のことなんだろう。

「◯◯な力」
「◯◯な力」
「◯◯な力」

みたいな返答が来ると思っていた僕にとっては意外だったけれど、でも深く共感した。

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人格とは何か…

僕と葛原さんの一致した見解がある。

状況や相対する人に応じて具体的な振る舞いは変わって当然。「変わらない」が個性なのではなく、状況にきちんと対応して振る舞いを使い分け…その変化の奥底で通貫してるものが個性であるということ。

場面に応じて変わる動き。その動き自体を生み出している核になっているもの…。それがきっと大事なんじゃないか…という話。

まだうまく言語化できていない。

でも

状況に誠実に向き合って、きちんと振る舞いを変える…その積極的な変化ができなきゃ本当の意味で他者理解も進まないような気がしてる。

葛原さんの提唱する「けテぶれ」では、子どもたちが個々に思考と試行を積み重ねて成果を上げていくが、ある一定レベルを過ぎると、集団内でそれぞれの勉強法を共有する時間が設けられる。

時にはほかの子のために練習問題を作ったりもして、それが子どもたちの共有財産になっていく。

そこにあるのは「僕はこういう勉強方法で成果が出たよ」という決して押し付けではないやわらかな意見の提示だ。

勉強法という枠組みの中ではあるが、「僕の勉強法はこれ」という自己の確立と「それが必ずしも人に通用するとは限らない」とい自分とは異なるあり方への受容が共存している。

「人格の完成」が目指す状態に、学習法という角度ですでに到達していた。

とっても刺激的な語らいだった。

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動きそれ自体が価値

テセウスの船という話がある。

航海して傷ついた部品を交換する。1つずつ交換していくと、長く使っているうちにいずれすべてのパーツが最初のものとは入れ替わる。その時その船は果たして、「同じ船」と言えるだろうか?

という話だ。

「たしかになぁ…」と思っていたけど、今の僕ならこう応える。

間違いなく同じ船だ。

と。

そこにあるのは、「パーツを交換しながら航海を続けた」という唯一無二のストーリーを背負った船。パーツを交換したことそれ自体が、船の歴史であり、そこにこそその船らしさが在るという理解。

昨今、この国のほとんどの川は護岸工事がほどこされて長年見ていても川の形が変わることはない。

でも昔はそうじゃなかった。

山から裾野へ
そして海へ…

流れによって岸は削られ、湾曲し、長い年月をかけて形を変えるのが川だ。

ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず。

流れる水自体は刻一刻と変わるし、流れによってその姿自体も変わる。それでもその川は同じ川として認識される。その川が別ものとして認識されるのは、水が絶えて、川でなくなった時だ。

川もまた、流れそれ自体、流れによって生まれる変化も含めて川なんだ。

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対談の終盤、葛原さんは「係活動なんかなくてもみんなができることをやれば集団がまわる…それが理想なんじゃないか」と仰ってた。

その通りだと思う。

その上で僕は、「それって一度完成したからはいOK…ってもんじゃないですよね?」と掘り下げてみた。

懸垂すると顔が鉄棒よりも上に来る。その状態を維持しようと思ったら、腕の筋肉は常にがんばらなきゃいけない。現状維持は決して楽な状態ではないのだ。

「係活動なんかなくても〜」の状態はそういうものだと僕は思う。

「あいつがあれやってくれるからいいや…」という感覚になったらそれはすでに崩壊が始まっている。

得意不得意や認識の相違、タイミングのズレはある。でも、「落ちてるゴミに気付いて拾う」というのは惰性ではできない。常にある程度の新鮮さを持って教室を見つめ、違和感に気づくセンサーを働かせながら、時に迅速に動くことが必要。

ほどよい緊張感のあるほんの少し覚醒度の高い状態…それが「係活動なんかなくても〜」という状態なんだと思う。

川が川であるために流れ続けるように…

その船がその船であるためにパーツを替えていくように…

変化それ自体が「完成」なんだろうと思う。

挑戦はしている。
でも力んではいない。

そんな状態が、「人格の完成」なんだろうと思います。

葛原さんありがとうございました。

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こんにちは!へいなかです! 非行少年の地域定着支援を仕事にするべく、経済的な基盤をつくるためにアレ…

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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。