へいなかの教育者としてのダメなところ。
ある心の底から尊敬している教育者のお話をうかがいました。
本来ならば15分しゃべり倒してもいい場面で、自己紹介とご自身の教育理念の共有をして、残り時間を会場内のグループセッションにしたその鮮やかな手法にも感動しましたが…
ハッとしたのは冒頭の一言。
この一言は精神的苦痛を与える体罰と呼ぶべきものだとおっしゃっていた。その通りだと思うし、その言葉で現状が変わることはないだろうとも思う。
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正直な話をします。
僕はそういう言葉をよく吐いている。
現場で。なんならもっとどぎつい。
学力や容姿を話題にすることも少なくない。
そこだけ切り取れば十分体罰。
少年院でも時々幹部から注意された。
不適切。
これは事実だろう。
昔からそれ自体の自覚はある。
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Twitter #塀の中の教室 で発信している中にも「お前」というワードは何度も登場する。ぶっちゃけ「お前」だけで十分不適切な世の中だ。
まして「嫌味」などもってのほか。
でも
少年院でも放デイでも、ほかの誰よりもそれを言うのが僕だ。
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ぶっちゃけただの言い訳や正当化なのかもしれないが…僕はある程度の条件においてこれは必要だと思っている。
主な理由は2つ。
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ありのままを受け入れることは大事だが、いまのまま許容しつづけるのはちがう。
教育や支援の現場には、これを混同した「いい人」が溢れかえってる。僕が勤めてる放デイも同じだ。
昨年度まで主としてカリキュラム運営を担っていた人間は元教員の絵に描いたような「正しい教育者」で、いつも一定の温度感で子どもを「◯◯さん」と呼ぶ。
で
工作でも作業でも、子どもが作ったものはなんでも一発で受け入れる。どんなに雑な作品でも一発で受け取って花マルつけて持ち帰らせ、保護者には「一生懸命作ってました」と伝え、職員には「楽しんでやってたんで」と総括する。
結果
線に沿って切ろうという姿勢もなく、いいかげんに切り抜いたイラストもどきを「作品」として評価し、子どもは1年経っても何も成長していなかった。技術も態度も。
ここ半年、僕が運営するようになり、子どもの作品にきちんとダメ出しするようになって明らかに変化が起きた。黙っていてもそれなりに丁寧に切ろうとするし、明らかに精度が増した。
図形を認識する力がついた子もいる。
子どもはこうして伸びていく。適切なダメ出しと目指すべき方向の自覚があれば、子どもは伸びる。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。