7月17日:「要求しない」という流儀
おはようございます。
放デイや児童発達支援の現場に関わるようになり,改めて勉強する必要性とこれまでに自分が積み上げてきたものの確かさを感じている安部です。
とりあえず1つ言えるのは…やっぱり僕,子どもと関係性を築くのが得意だということ。
信頼関係…?
ない状態からいかに自然に懐に入るかが腕の見せ所ですよ。
さて…
1)活動報告
昨日(7/16)は一昨日に引き続き,私立中学での特別講義でした。講義と言っても昨日は対談で,お世話になってる友人の起業家との対談がメイン。なので特に準備などもなく,その場で話を展開し,中学2年生向けのメッセージに落とし込んでいった。
単純に楽しかったし,いろんなものを感じました。
後半は生徒たち自身にもテーマトークのような形でディスカッションをしてもらったのですが,そこではどうしても「コロナ禍」が話題になって,感心しつつも
言葉と感覚がまだ繋がってないんだろうなぁ…
という印象を受けました。
考えてみたら自分の中学時代だって似たようなものだったと思う。
目の前の情報が,その向こう側にいる人の直面しているであろう現実とともに認識される…そんな感覚になったのはいつ頃からだろうか。
原爆資料館に行ったり
パレスチナに行ったり
震災後の福島に行ったり
そんな経験の積み重ねで今の僕になっているのだとしたら,中学2年生にそれを求めるのは酷というものだろうと思った。
どんな話だったかというとね…
コロナウイルスと政府の施策による社会への影響などを論じている時には,多くの人が「店が潰れたりしてて大変」と言っていたのに…
夏休みの過ごし方を話し合ってる時には「旅行に行きたい」「遊びたい」という話になって…
そこにコロナによる「不自由」は感じつつも,現実的に生活を脅かされる不安感みたいなものは微塵も感じられなかったということなんです。
「店が潰れてる」は客側から見た自分の生活への影響の1つとしてそこにあるだけで,潰れた店の人は「毎年恒例の旅行に行けない」なんてのとはまったく違うことに悩んでるわけ。
別にそこに対してボランティアや寄付をしろとは思わないけれど,そういう人が世界中に溢れかえってるという現実とはまったく別のところに生きているということが,そのディスカッションからありありと感じられた。
制約が増えたことによる不便を,平然とぶーたれられるということが,どれほどレアなことなのか,彼らはきっとまだ感覚としてはわかっていない。
それは彼らの家族の努力と運によってもたらされた平穏で,「平和ボケ」というのはこういう感覚の先に生まれるものなのかもしれないなと思った。
パンが無いならケーキを食べればいいじゃない
が延長線上のはるか彼方に見えなくもない気分だった。
いや,彼らが悪いわけではないのですが。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
2)「要求しない」という流儀
対談の中でも再確認したことがありました。それは講義や講演などに対する自分の流儀について。
僕は自分が登壇する側で人前に立つ時,「この時間の価値を決めるのは皆さんです」みたいなことを言わない。話す前から聴衆や受講者に対して要求を突きつけるようなことが,どうにも肌に合わないからだ。
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放デイのスタッフをしながら、わが子の非行に悩む保護者からの相談に応じたり、教員等への研修などを行っています。記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。