唾を吐いても一人

自戒を込めて。自分の文章を読んだからなのでしょうか。きっかけは定かではありませんが、作品のなかに滲み出る作者の自我は白々しい、先日ふとそんな考えが頭をよぎりました。

どんな媒体でも共通するのですが、よりよく見てほしい、よりよく評価されたい、そうした虚栄心に依る情報が作品のなかに混在すると、作品そのものに不要な緩急が生じてしまい、結果的に作中世界に非合理性や澱みをもたらすことになり得ます。
自分の書いた文章にも、当然そのような背伸びした表現を認めることができます。noteでもxのポストでもあまつさえLINEのテキストでも。(LINEはコミュニケーションツールに過ぎませんが、人に意思を伝えるために、魅せる文章を心がける場合があります)
人に抱いてほしいと願う自分像が透けて見えて、かえって恥ずかしい。自己表現に嘘はつけませんね。そうした感情の発露を避けるために、だからこそ、ある程度作品とは距離を置いて創作することが肝要です。

ところで、唯美主義の代表作に挙げられる『ドリアン・グレイの肖像』の序において、著者オスカー・ワイルドは「美」を次のように定義します。一節だけ抜き出します。

芸術を顕し、芸術家を覆い隠すことが芸術の目標である

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』福田恆存訳、新潮社、p.7

『ドリアン・グレイの肖像』においては、この文脈は画家バジル・ホールウォードの描いた絵画を題材に語られます。彼は自身が手がけた美貌の青年ドリアン・グレイの肖像の中に、芸術家である己自身の魂までもを射影してしまいました。これは、序における芸術の目標からは逸脱した行為です。
作品に込められたドリアン・グレイへの異常な執念を認めた作者は、恥辱とともに、その事実と完成作品を秘匿のものとします。
なにやら、冒頭で挙げた内容とも対応するのではないかと思い当たり、引き合いに出した次第です。

また、続いてボヘミア出身の小説家、ミラン・クンデラの興味深い思索を引用します。

「芸術家はみずからが生きなかったと後世に信じさせるべきだ」とフローベールは言っている。モーパッサンはある有名作家双書にじぶんの肖像が掲げられるのに反対して、「ひとりの人間の私生活および姿は公衆のものではない」と言った。ヘルマン・ブロッホはじぶん自身、ムージル、カフカについて、「私たち三人にはいずれも真の伝記はないのだ」と語った。(中略)真の小説家の特徴は、じぶんについて語るのが好きではないということである。

ミラン・クンデラ『小説の技法』西永良成訳、岩波書店、p.206

彼が、彼自身のために作成した個人的な辞書「六九語」、その中の「小説家」の項を参照しています。つまり、小説家であれば、作品と作者の間に明確な線引きを行うもの、ということを示唆しているのでしょう。なお、マスメディアによるこの理想の実現不可能性が、後ほどクンデラによって語られます。
表現者という観点からすると、芸術家ではなく、やや狭義な小説家へと主題が変遷してしまっていますが、文章を媒体としている表現としての関連性から引用しました。

過日、大学時代の教員から「何を書くかは、すぐれて何を書かないか」だという教えを受けたことがあります。今になって、この言葉の含意を痛感するようになりました。なるほど、遅延性の良薬ですね。
要するに、文章の完成度を高めるために、いかに自己顕示欲を見放すことができるか、ということです。文章に人となりが顕現するのは、作者の造詣のみならず、物事に対する取捨選択の姿勢までもがそこに浮き彫りになるからなのでしょう。
(まさに、このように思いつくままに引用やフレーズ、所感を挙げることが危険なのです。衒学的とも受け取れる振る舞いが文章の流れを堰き止めてしまうのではないかと気掛かりで仕方ありません)

その点を踏まえると、X(旧Twitter)における表現形態は、表現者としての発信者にとって非常に都合が良いように思います。どんな失言でも、すべて独り言として後付け的に正当化する余地がそこにはあるのです。
いかなる発信であれ、その当初は外部に向けられたものだったとしても、その後内容に違和感を抱いたら、あくまでも自分の内部に向けられたものとして、後天的に独り言のうちに分類することができます。そうすることで、表出していた虚栄心や、そこに起因する羞恥自体がそもそもなかったことになるのです。

そうは言っても、大衆の視線が前提となっている昨今の情報化社会においては、発信者でいる時点で、その発信内容を自己完結のうちにとどめることは殆ど不可能なように思います。というよりも、表現を自己完結のものと規定する決定権自体がもとより自身の手中にはなく、予め他者の手に委ねられてしまっているような、そんな感覚を覚えます(前掲したミラン・クンデラの著書における作者のマスメディアに対する警鐘とも通ずる部分があります)。

中学生の時の国語の教科書の中に「咳をしても一人」、尾崎放哉によるそのような俳句が掲載されていました。自由律俳句を紹介するコンテクストの中で挙げられていた句だった覚えがあります。体を病もうが気にかけてくれる他人すらいない、そうした孤独な状況を詠んだ感傷的な一節です。
蛇足ですが、「鹿せんべいあげても一人」、当時の同級生が奈良への修学旅行の事後学習の時間に、このような俳句を詠んだことを今でも覚えています。歳を重ね、ようやく傑出したその瑞々しいユーモアに気付きました。

情報網という監視の目が張り巡らされた現代においては、むしろこのような「咳をしても一人」で在る環境の方がありがたいのかもしれません。自分の個人的な発信が他者に影響を及ぼすことなく、同様に自身も他者の言動に影響を及ぼされることのない、そのような循環が停止した静の空間の中で、ゆっくり自分の本心を眺め向き合う時間をもうけることが必要なのではないかと思うのです。
むろん、本心の中には、悪性なものや攻撃的なもの、それこそ唾や痰、あるいは膿に当たるものもあるでしょう。それでも、そもそもそれらは人間固有の生理現象により体内に堆積されていくものですし、うまく自浄していかねばなりません。静謐な真空空間に韜晦されて。

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