すべて拾い上げる必要はないということ
今日の気付き、すべて拾い上げる必要はないということ。
ここのところ、絵に対するやる気がひとしおで、とても嬉しい。人、出会い、意思、光景、さまざまな要因から、たくさんの刺激をうけています。自分を、生活を、未来を、他者を、世界を、信頼(≒期待)してよいのだと、安心している。変化をもたらした学びを言葉で表すと、単純に、傷つくことを恐れないこと。
ただ、絵に邁進せんとすると思う気持ちと表裏一体に存するのが、頑張りすぎてはいけないという保守的な気持ち。
というのも、使命感や義務感が創作における最大の障害となる。そのため、それらの脅威からは”逃れ続けなければならない!”(そうした号令から解き放たれるには、どうしたらよいのだろうか)
しかし今日は、ひとつの不完全な(気休め程度の)、簡単でいて、実現困難な解に辿り着いた。
描きたいもの(要素)だけ、描けばよいということ。全体像をすべて表そうとする必要はなく、むしろ、自分が描きたいものがすべてなのだから、、、。
ここにおける「全体像」とは、外部に要請されるもので、描写のうえでこうした方がよい、そういう強制的な概念(完璧と言い換えられようか?)。実行せねばならないと感じるもの。
一方、「自分が描きたいもの」というのは、自分という境界のなかにおいてのみ展開されるもの。
自分が描きたいものは全体像の影響をうける。全体像を目指しつつも、とはいえ描きたいものはそれとは明白に異なるのだし、あまり気負いして全体像を追いかける必要もないのだ。
必要とか、〜したほうがよい、とか。くだらない。そうした命令、口うるさい概念一切があたまの中からなくなってほしい。でも、アウトサイダーになるのは恐ろしい。社会性と作家性(≠想像力)は二者択一なのでしょうか。
なんでもいいや。そのとき描きたいものを描いて、考えたいことを考えた。時間の制約も設けず、好きなように。これが自分のしたいことだと思った。(文章においても!)
絵は過去であり、現在であり、未来であり、私のすべてである。大した実力もないのにそんなふうに思う人がいるなんて、と感じる人もいるでしょうが、います。そういう小さい世界で生きている人間が。
涙が出そうになった。ペンを握ると、昔日の、キャンバスに向き合う日々の時間がいつも想起されます。具体的な行為の光景が浮かび上がるわけではないのに、その時の苦痛や不安、それでもずっと存在していた根源的な創作への愛情とか、そういうものが全部溢れそうになる。どうして?
それでも、そうして目頭を熱くするのは好き。わたしの感情と、わたしの生が、そこで合流して、充実感がこみあげてくる。「生きてる」を発見するのだ(!)。
モチベーションはまさに火だと思った。絶えず揺れ動き、外部要因の影響に常にさらされており、一度かききえてしまうと再びその炎を点火させるのに多大なるコストが要る。盛んに燃える時もあれば、すぐに消えてしまいそうなか細い火を灯していることもある。心の中で、大事に守っていかないといけない。
モチベーションに限らず、こころとか、命とか、創作意欲も同じようなものか。
ぼんやり外で作業していたら「Fly Me to the Moon」が聴こえてきた!親が弾いていたメロディが幼少時代の記憶にこびりついている。
想像力は非常に軽やかで、重力などに縛られず、酸素を必要とせず、それ自体でどこまでもゆける。
太陽神の日輪の馬車のように、それが自由に空想世界を駆け回れるように、その制限を取り除いてやるのは、他でもないわたしなのだ。
2024/11/03