何故清少納言に学ぶのか
清少納言の『枕草子』
皆さん学校で聞いたことが、あるいは読んだことがあるかと思います。
しかし、学校で教わるのはせいぜい「春はあけぼの」という季節の段、「雪のいと高う降りたるを」という香炉峰の雪の段くらいではないでしょうか。
また、清少納言と言えば、自慢話ばかりの嫌な女、という印象も強いかと思われます。
「清少納言から生き方を学べるなんて、そんなことあるのか」
「古典なんて学校の勉強だけで十分、古文なんて小難しいし古臭い」
そう思われる方も多いのではないでしょうか。
しかし、私は下手に自己啓発書を読み漁るより、『枕草子』を読んだ方がよほど自分らしい生き方というものを感じられるのではないかと思っています。
私は、清少納言のことを、「日常に存在する素敵なものを見出す天才」だと思っています。
あるいは、「自分の好きなもの、嫌いなものを理解する天才」でしょうか。
私たちは普段、自分らしさを表に出すことなく生きています。
今でこそ自己実現、好きなことで、そういう考えは普通のものとなってきましたが、それでもやはり日ごろは自分らしさを抑圧し、周囲に馴染む努力をします。
学校ではグループにハブられないように話を合わせる努力をし、目立たないように生活します。
就活ではリクルートのスーツを着て、面接対策をし、好きなことではなく良い企業に就職しようと競争します。
就職後は周囲の人間関係に苦心し、取引先に好印象を持ってもらえるように笑顔を浮かべ、服装もなるべく目立たないもの、周囲に馴染めるものを着ます。
そしてその結果、自分の本当に好きなものがわからなくなった、という経験があるのではないでしょうか。
攻撃的になることや好き勝手に振舞うことが良いと言っているのではありません。
当然マナーというものは存在し、TPOに合わせた服装をすることは大切です。
ですが、本当にそれは自分の好きや個性を殺さなくてはならない理由になるのでしょうか。TPOに合わせながらも、自分らしく振る舞い、自分の個性を活かした服装をすることは、果たして悪なのでしょうか。
賛否両論あると思います。
実際、清少納言も百二十三段「あはれなるもの」にて
御嶽に詣でるときは、高貴な人でも粗末な身なりをして参詣するものなのに、右衛門佐宣孝が「つまらないことだ、ただ清浄な着物を着て参詣することに何事かあろうか。まさか『身なりを悪くして参詣せよ』などと御嶽の権現はおっしゃるまい」と、三月の末に息子と親子そろって派手な服を着て連れ立って参拝していた。みんな「この山であんな派手な格好をした人は見たことがない」と言って驚き呆れた。しかし六月十日余りの頃、筑前の守が亡くなって代わりに任官し、「なるほど言ったということにたがわないことよ」と評判だった。
ということを書き残しています。
これは、マナーの問題ともいえるでしょうし、または個性の問題ともいえるでしょう。周りに合わせての服装をすべきであり、これはいけないと考える人もいるでしょうし、逆に個性を大切にするのは良いことなんだし、規則で決まっている訳ではないのなら、別に派手な着物を着ていってもいいんじゃない? と思う人もいるでしょう。
この話は、清少納言による右衛門佐宣孝批判として受け取られることが多いです。しかし、私はそうではないのではないかと思いました。
本文中、最後に佐宣孝は筑前の守に任官し、周囲の人たちは「言ったこととたがわなかった」と評判だった。と書いています。
批判だけをするつもりなら、他の段のように「あれはよくない」とだけ書けばよいのです。しかし、彼女はそうではなく、あくまで御嶽の話が出たからついでに、と後ろに続けて書いています。
この話からは、慣習や周囲の目線などではなく、自分の感性に従って生きた佐宣孝の生き生きとした様子が読み取れると、私は思うのです。
当然、宮仕えをしている清少納言と佐宣孝の考えは合わなかったでしょう。
しかし、佐宣孝の話を「にくきもの」「かたはらいたきもの」「はせにもうでて(下品な連中のお話が載っています)」ではなく、御嶽の話のついでとして書いているのは、清少納言も本気で彼を批判するつもりはなかったからではないでしょうか。
清少納言の生きた時代は、女性にも知性が求められた時代であり、同時に女が漢籍を読むなんて、と頭のいい女が煙たがられた時代でもあります。
当時の男性たちは、女房(宮仕えをする女性のことです)は友達として関わるならともかく、妻にするのは嫌だよな~なんてことを言っていたそうです。
頭が良くて、いろいろな男に顔を見せ、可愛げがない。
そんな風に言われながらも、清少納言は女房という仕事に誇りをもって生きていました。
この現代で、自分の仕事に誇りを持っていると断言し、毎日を楽しく生きている女性がいったい何人いるのでしょう。
清少納言だって不安を抱えていました。
田舎から出てきた自分が、この輝いている宮廷で働くなんてできるのか、と。
だから初めからその仕事が好きになるか、なんてわかりません。
もしかしたらこの仕事がしたいと思っていても、実際にやってみたら何か違うと思うかもしれません。
しかし、それでも無理をして、自分を押し殺して働くことは、幸せとは程遠いのではないでしょうか。
私たちにだって、自分らしく、輝いて暮らすことができるはずなのです。
そしてその方法を、あるいは、ほんの欠片だけでも、清少納言から見出すことが出来る。
私はそう信じているのです。
私の枕草子の解釈は、良いものだと思う人もいれば、当然、そんなのは間違いだ、おかしいと思う人もいるのでしょう。
ですが、これが私なりの、枕草子の解釈であり、そして、清少納言への解釈なのです。
私はありのままのわたしを生きます。
これからもありのまま、見たこと、感じたこと、考えたことを恥じることも、隠し立てすることもなく、綴っていきます。
ここまでお読みいただきありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。