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容姿は手札のひとつにすぎないと思うんだ

最近フォローさせもらっている、好きな書き手さんたちが、容姿について触れたり書いたりされている。

バチェラーデートで5段階中1.5の容姿評価
しかし、「モテない」という機能面に対する不満であり、アイデンティティ・実存に関わる不安ではないとのこと。
硬質な言い回し、高尚なセンスがかっこいい。


「中の上」のお顔は命綱であり、お守り。
あおさんは本当に「機微」を表現されるのがお上手。
※あおさんは架空エッセイと本当の話しが混ざっているそうです




「上の下」だね。

私は仕事で知り合ったある女性に、容姿についてそのように評価されたことがある。

人の容貌をそんな風に評した当のご本人は、くっきり二重の美しくカーブを描いた左右対称の瞳に、影をつくるほどの長い睫毛。白磁のような肌。つんとした少女のような小さな鼻と、それとは裏腹な肉感的な厚い唇が色っぽく、私の目から見ても大変な美人だった。

「ではご自身は?」
その遠慮のない率直な言いようが面白く、私がそう尋ねると、完成した美貌を持つひとまわり年上のクライアントはちょっと考えてこう言った。

「ぎりぎり上の中かなぁ。上の上ではないわ」

このときはじめて、容姿にばっくりとした偏差値があることを知った。すでに二十代後半に差し掛かろうか、という頃だったと思う。

それまで容姿にそんなシビアな相対評価があるなんて、考えたこともなかった。そりゃ造形美としての優劣は当然あると分かっていたけれど。

私自身は容姿に優れた人を見ても「顔立ちのきれいな人だな」と芸術品を愛でるような気持ちで眺めるだけだった。ヒエラルヒーや偏差値のような相対的視点で捉えたことはなく、絶対評価でしかなかった。学生時代にそういう雰囲気があったかも分からない。すでに小説で飯が食えるかチャレンジに突入しており、家に籠って書きまくっていたためきちんと学生生活をしていなかったせいもあると思う。ちなみに、食事する程度の知人はたくさんいるが、友達はずっといない。今もな。

だから当然容姿が他者から算定対象となり得るものと思っていなかったし、個人的にもコンプレックスも自尊心のどちらにも結び付いていなかった。

そもそも私にはコンプレックスも少なければ、自尊心もほどほどにしかない。いや、自尊心はあまりなく、「ありのままこの世に存在していてもよいという感覚」がある、というのがより正確かもしれない。

それは、青天井の内向性と、それにひも付けられている絶対的価値観のせいだろうと思う。

外向性の高い人だと、他者評価や相対評価の価値が高い傾向があると思う。しかし、内向性の高い人間は基本絶対基準で生きている。内向性と外向性は表裏一体、誰しも両方持っているものだ。しかし、私の場合は内向性が外向性を大きく凌駕している。

例えば私は小説を書いているけれど、いまいち納得いかなかった仕上がりのものがたとえ本になって評価を受けるよりも、誰にも読まれず一銭にならなかったとしても「これはすごくうまく書けた!」と自分自身で納得できた方がたぶん幸福度が高い。これがだめだ。作家になれなかった理由が端的に表れている。

さらなるそもそも論として、「何ももっていない自分」を起点に生きているのもある。

何ももたない自分が、身一つで社会でどのくらいやれるのかをずっとゲームのように楽しんでいる。なので長年フリーランスであり、時にビジネスもするので自営業である。

その数々のゲームの結果から逆算して、自分の手元にどんな有効なカードがあったのかを知ったのが三十代前半ぐらいまでだった。

今はそんな手札を宙に放り投げて、マジックのように新しい独自カードを生成してそれを試すことが面白い。凡庸で中途半端なつまらないカードを元手にいかに珍しいカードを合成できるか考え、試している。身一つで生き残るためには、希少性を持っていないと難しい。

容姿や学歴、才能などの持っているカードを増やしたり質を上げることで生きていこうと思ったことはなかった。人より優れたキラキラの素晴らしいカードが欲しいとも思わなかった。いや、それ以上にキラキラのカードは手にいれられるだけの資質がなかった。どの種類であれ、特別なキラキラカードを手に入れられる人は、ごく一部の選ばれし者だけだ。

なので凡庸な私は、手元に何のカードがあるか探すところからはじめ、把握したカードを使ったり、時にそれを元手に新たなカードを産み出すことで生きてきた。この先のことは分からないけれど、今のところはそれでやれている。

このあたりが、コンプレックスも自尊心も薄く、ストレスフリーなメンタルの所以だと思う。

話を容姿に戻そう。

もしかすると、私は容姿「優」カードを持っていたのかもしれないし、それでいい思いをしたり、得をしたこともあったのかもしれない。しかし好ましくない体験もやはり思い当たる。

クライアントは「上の下」と評したが、お姉さまの美しさと私はまるでベクトルが違っている。誰が見ても美しく華やかな彼女とは違い、私は痩身で背は高め、塩顔。やや中性的だ。少し人を寄せ付けにくい硬質さを伴っていて不便だと思うこともあった。

装飾品のようにされることに傷ついたこともあったが、それも今になって思えば少し潔癖すぎたな、とも思う。容姿も自分の一部分であることには違いない。

ちなみにこの回顧は、今現在同種の悩みを持っている方を否定するものでは決してないと強く断りを入れておきたい。あくまでも自分の場合だ。傍目には一見同じように見える問題も程度は違うし、正味のところも全然違うだろう。同じようなシチュエーションでも、どのような感情を抱くかはそれぞれだし、どのような収束をしてもいいのだ。

どんな種類のカードであっても、大事なのはそれに振り回されず、自分の管理下に置き、適切に運用すればいいのだと今は思う。私の場合は若い頃はその使い方を十分に知らなかった。

年とともにいいあんばいに劣化して、容姿カードは大分使いやすい手札になった。古ぼけて擦り切れたこのカードは、そろそろ手放して別のカードと合わせてまた新たな手札に変えようと思う。


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