恋愛小説を書く人間の恋愛観のはなし
大好きな書き手のももさんが、恋愛について書いてらした。
興味深く、何度も拝見して噛みしめたあと、ふと自分の恋愛ってどうだったかなと思った。
自分は恋愛小説を書いている。ずっと。
異性愛だったり、同性愛だったりする。
今は現在進行形で女性同士の親密な関係を書いている。現代ファンタジーの舞台で。
じゃあ、燃えるような恋をしたり、忘れられない恋愛体験があるのかというと、別にないし、そもそも自分の人生のなかで恋愛が優先事項だったことがないことに気づく。
自分の恋愛スタイルは、「来るもの拒まず、去るもの追わず」の受動的かつ淡泊な姿勢で一貫している。
結婚はしている。子どももいる。
仕事と小説さえあれば、いくらでも無限に時間を使えてしまう。むしろその二つだけでも時間は足りないくらいなので、結婚願望はなかったし、身体的な問題があったから子どもは産めないはずだった。結果的には何やら大いなる流れに乗って流されていたら、ぽんと生まれた。五度の手術と長期の投薬が必要だったけれど、医療に携わる方々の高潔な志と熱意に後押しされたと思う。まあ、この話はいい。
結婚することになったのは、あまりにも面倒くさくなったからだった。
今の夫と知り合ったときに私は結婚はしない、子どもは産めない、(注:子どもを産めないから結婚しないのではない)と言っても、相手はそれでいいと言った。しかし、付き合いはじめてすぐ一週間かそこらで「結婚しよう」と言い出した。人の話を聞いていないのだな、と思った。
曰く、私が結婚するつもりがないのは分かっているという。それを理解したうえでなお、自分には君と結婚したいという気持ちがあり、それを表明するのは自由ではないかと。
確かに理にはかなっている。どのような思いをもち、表現するのも個人の自由だ。
しかし、そのうちに毎日のように向けられるその強い感情をいなすのも、受け止めるのも面倒になった。
私にとってもっとも貴重かつ価値の高いリソースは時間だ。
これ以上時間を浪費するのは嫌だった。それだけの熱意を向けてくる相手に別れ話をするのも骨が折れる。
ああ、もう面倒くさい。
じゃあもうそれでいいです──というわけで結婚した。
あれから十年以上経つが、彼が自分にとって最良の人だったとは思う。
夫は手放しに私の能力や創造性を愛し、料理の盛り付けや活けた花、その日の服装など生活の些細なことを取り上げてはセンスを愛でて、時に事務所に籠城して12時間仕事してそのまま気絶するように12時間寝るなど、奔放かつマイペースな生活スタイルを尊重してくれる。はぐれメタルを捕まえたと今も喜んでいる。もっとも、私よりもずっと芸術家的生きざまなので、彼には生活力がないというオチ付きである。
ただこれも、消極的な選択による結果にすぎない。彼がとても好きだったわけでも、結婚相手として最適だと確信があったから結婚したわけでもない。
若い頃は、この恋愛に対する自分の熱量のなさが自分でも不思議だったことがある。誰かを好きだという気持ちが分からない、とよく酒を飲みながらこぼしていた。
でも、今は理由を知っている。
自分はたぶん、博愛主義者だったのだ。
人を嫌いになることは少ないが、特別に誰かを好きになることも得意でない。広くみんな好きになる。
そのせいか、セクシャリティも両性愛者にかぎりなく近いように思う。
同性にもたびたび恋愛感情を含む好意を寄せていただくことがあって、その度に真剣に考えたりもした。
「私のこと好き?」と聞かれ、「うん、好きだと思うよ」と答えたらちょっとイラっとして「じゃあ、私とセックスできる? そういう意味なんだけど」と言われたことがある。
はっとしたけれど、即座にまあたぶんできるな、と思った。そのときはじめて、自分は異性愛者を自認していたけれど、けっこう境界線がふわふわしていることに気づいた。彼女とは結局しなかった。彼女は私をアクセサリーのようにして連れまわしたいだけだったから──。
まあ、博愛主義的思想を持っている人間は恋愛に淡泊なのではなかろうか、と思う。ただ、本質的には人間を愛しているから押しに弱いのかもしれない。いつでも押され、流されて恋愛らしきものをしてきた。
と、いう掌編小説。
ノンフィクションだけどね。
こういう話を書くと、作り話だ、気持ち悪い妄想だなんだと突っかかってくる人がいたりする。
自分の知っている世界の範囲外にある話は想像や理解ができないか、単純に薄気味悪いのかもしれない。そういう人はご自身の精神衛生のために小説だと思えばいい。
ただ……
この話を読んでネガティブな感情が想起されたのなら、この話のどこかにあなたのコンプレックス※を刺激する事柄が含まれている。
その引っかかりがどこで、何故なのか考えるのはご自身の恋愛観や結婚観を整理するのに役立つ可能性があるのではないだろうかと思う。
※文中の「コンプレックス」は劣等感の意でなく、ユング心理学の意で使いました
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