長編|恋愛ファンタジー|命を狙われる覚えは?-9-
返り血に衣を赤く染めて戻ってきた二人の姿に、ハルは息を呑む。リドルフは、なにも言わずに静かに立ち上がり、懐紙を取り出してセティの白い頬にはねた人血を拭った。
「早く流していらっしゃい。染み付きますよ」
その言葉でハルは彼らの身を汚しているのは、返り血なのだということに気がついて、安堵する。
セティはただ素直にリドルフの言うことに従った。黙ってひとり今戻ったばかりの部屋をあとにする後ろ姿と、それを見つめる感情が読みにくい空色の瞳の持ち主とを見比べて、ハルとメイラはなんとなく気圧されたようになり、なにも言えなかった。
「少しのあいだ、カイ殿を頼みます」
そう二人に言い置いて、リドルフも部屋を出て行ってしまった。
寝台に横たわるカイの呼吸は穏やかなものにかわり、眉間に深く刻まれていた皺は薄くなっていた。
生温かい夜風にのって流れてきた、かすかな人の声に気づき、ハルは窓に取り付けられている虫除けの細かい網を片手で押し上げて窓から顔を出す。階下を見下ろせばその正体はすぐに分かった。
リドルフが中庭に四人の死者を並べ、マントラを唱えていた。
同じ人間の口から紡がれるマントラによって、一人は命を繋ぎとめようとし、四人は送られようとしている。それは、ハルに不思議な思いを抱かせた。
「殿下、これは非常事態です。一刻も早くウルグリードに戻り、国王陛下にご報告なさいませ」
聞きなれた老女の声に振り返ると、いつのまにか返り血を浴びた衣を改めたメイラが険しい顔で立っていた。
「分かっているよ。けれど──」
ここは国境の狭間の町、アイデンだった。ガイゼスの王都ウルグリードまでは最短経路を進み、どんなに急いでも半月はかかる。そのうえ、怪我人を連れての旅ともなれば、倍以上かかるかもしれない。
「使者を出そうにも、人もない」
置かれた状況は、限りなく不透明であった。使者を出したところで、無事にウルグリードに辿りつけるかも分からない。襲撃者たちはここで自分たちを殲滅させるつもりだったのだ。それほどの用意と覚悟が彼らにはあった。そしてそれは、成功する可能性がかぎりなく高かった。
外からはまだリドルフのマントラが聞こえる。
涼やかなテノール。それは、驚くほどすんなりと心の中に染み入ってくる。
あのとき、偶然耳にした白人の青年僧とその美しい連れの噂が、結果としてカイだけではなく、ハルとメイラの命をも救った。なにかがひとつ違えば、ここで命を落としていた──。
そう思うと途端に、得体の知れない冷たいものがひやりと体を包みこんで、ハルの思考を止めてしまう。
重い空気のなかに戻ってきたのは、リドルフではなくセティの方だった。
メイラと同じように衣は改めており、さらには血を洗い流してきたのか、金色の髪は毛先が濡れている。
「命を狙われる覚えは?」
ぶしつけと言ってよいほど、率直すぎるセティの問いに反応したのはやはりメイラであった。今にも噛み付きそうなようすの側付きを目でなだめて、ハルは肩をすくめた。
「ないといえばないのですが、それは自分が勝手に思っているだけなのでしょう」
つつましやかな人柄が、その言葉にすべて表れているようだった。そんな覚えなどない、と断言できてしまう人間のほうが、自分が意識しないところで、およそ人の恨みや妬みを買いそうなものである。
「何が起こっているのか、検討もつきません。情報も不足しています。今、我々にできることは一刻も早く王都、ウルグリードにこのことを伝えることでしょう」
ハルは彼の従者と話していたことを、そのままセティに伝えた。