長編|恋愛ファンタジー|宿の主人は買収された-7-
「囲まれたみたいだ」
足音もなく、いつの間にか戻ってきた女神の化身かと思うほど美しい青年の姿に、ハルは驚いた。そして、彼が口にした言葉はそれ以上にハルを驚愕、というよりは慄然とさせた。
「囲まれた──?!」
ハルが上げた甲高い声に、長椅子で休んでいたメイラが目を覚ます。リドルフは変わらぬゆったりとした動作で、寝台に横たわるカイの額の汗を拭った。
「宿の主人は買収されたようだ。主人も他の客もいない。ここはすでに、もぬけの空だ」
冷静なセティの声とは対照的に、ハルの顔は驚きと動揺で顔色を失い、蒼白といってもいい。起きたばかりにも関わらず事態を把握した巡検使の御付きが毅然として言った。
「殿下、ご心配には及びませぬ。私が賊を追い払って参ります」
「賊なんかじゃない。かなりの手だれ揃いだし、宿の主人を買収するぐらいの金があれば、わざわざ襲撃など企てない」
セティの言うことはもっともだった。
そして、ハルは自身にのしかかってきた重いものが、決して杞憂ではないことをこのとき悟った。
「逃げる──のは、無理だな。今、この人を動かすわけにはいかない」
怪我人をちらりと見遣ったセティに、リドルフが是、というように小さく頷く。
「宿の出入り口は、正面と裏口の二つ。外へ出て囲まれるよりは、そこを塞いだ方が確実だ」
「お待ち下さい。狙われているのは、私たちです。お二人を巻き添えにするわけにはいきません」
「もう、巻き込まれているよ」
セティの口調には嫌味が全くない。それどころか、口元に浮かべた笑みは不敵といってもよく、呆れるほどに魅惑的だった。
「それに、怪我人と年寄りと子どもを放って逃げるなんて、リドが受け入れるはずもない」
人のせいにするなと、空色の瞳が雄弁に語っていたが、実際にリドルフがしたのは淡く口元に苦笑を刻んだだけだった。
「私が正面を引き受けよう。裏口は、婆さんに頼む」
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今にも噛み付きそうな様相をていしていたメイラが、その一言にはっとして黙然とセティを見返した。
「いけるだろう?」
神が手がけたかのような、寸分の狂いもなく整った顔でセティはにっこりと笑っていた。
メイラは毒気を抜かれたようになって、ひとつ咳払いをする。
「婆さんではない、メイラ・ロトだ」
セティは片眉をひょいと上げて、仁王立ちする小柄な体を見つめた。
「メイラ・ロト殿。それは、失礼した」
と、胸に手を置き一礼する。その仕草は、常人ならば鼻につくほどにわざとらしいものだったに違いないが、彼がすると王侯貴族のように優雅に見える。
「ふん。小童の手並みを見せてもらおうか」
メイラとセティが連れ立って部屋を出て行く様をハルは半ば放心状態で見送った。リドルフは眠るカイの額に手を当て、何事もなかったかのように自分の外套を彼の体にかけた。
「クライン・リドルフ殿は、落ち着いておられるのですね。このような騒ぎに巻き込まれたというのに」
「セティがああ言うのなら、任せておくしかありません」
ハルはリドルフの穏やかな声に、面食らった。
「セティ殿は、お強いのですか?」
「さあ、どうでしょう」
リドルフが小首を傾げた。
「私には剣のことは、よく分かりません。でも───」
ハルは壁に立てかけられたままのリドルフの大剣を、ちらりと見遣った。
彼らの国、ナディールには武器を厭う文化がある。白色人種は貴族や神職者はもちろん、庶民に至るまで剣も槍も使わないのだ。
「私が気がかりなのは、セティが血を浴びすぎないかです」