長編|恋愛ファンタジー|プルシャンブルーの空-1-
小さな港町の酒場には明かりが灯り、家々の煙突からは夕餉の支度の煙が上がる。
海に大地に、そして全ての命あるものに、惜しみない慈愛を注ぐ父なる太陽の神が雲たちを従えて引き上げると、かわりに姿を現すのは、プルシャンブルーのドレスに輝く星々を散りばめた月の女神。
月光に照らされた町の広場には、家路を急ぐ人があり、酒瓶を片手に談笑する若者があり、愛を語らう若い男女がいる。
それぞれが、それぞれの時を過ごし、いつもと変らぬ情景がそこにある。
石造りの長椅子に並んで腰をかけていた一対の男女の、男の方がふと広場の中央に目を奪われていた。
男の視線の先にあるものに気がついて、女は不平を鳴らす。
幾重にも重ねられた薄絹の足元まであるドレス。
薄布で覆われた髪と顔。
ゆったりとした袖口から伸びた腕に、裾からちらりと覗く足首はよく締まっており、肌は地上の真珠よりも白い。
ひかりを紡いだかのような金色の髪はつややかで、薄布に半分覆われた顔は遠目に見ても相当整っていそうだった。
「ありゃ、月の女神の落とし子だ」
ごくりと喉を鳴らした男の頬を、思い切りつねろうとした女は、どこからともなく流れてきた笛の音に手を止めた。
優しく、穏やかな音色のなかにかすかな憂いを秘めて響くそれは、聞くだけで心が洗われるようだった。
海からの湿った風に乗って流れてきた笛の音に合わせて、女が舞いはじめた。
絹糸のごとく艶やかな髪が揺れ、白い月あかりを受けて光の粒を広がり散らす。
幾重にもかさねられた薄絹の玉衣がなびき、白磁のように透った肌が露わになる。
伸びた四肢は楽にあわせてしなやかに、時に力強く動く。
男をたしなめようとした女は、自分が何をしようとしたのか忘れた。
否、その場に居合わせたほとんどの人間が呼吸をするのも忘れたかもしれない。
家族の待つ家へ急いでいた男は足を止め、呆然と立ち尽くす。
酒瓶を片手に悪態をついていた若い男たちは、口に含んだ麦酒を飲み込むことさえ忘れた。
薄布ごしに透かし見える、宝玉のような双眸は世のなにごとも映していないようなのに、時おり投げかけられる意思のある流し目と、ほころぶ薄紅色の唇は見る人を惑わせ、恍惚とさせる。
まるでそこだけが時が止まったようだった。
いつしか出来上がった人垣に響くのは、澄んだ笛の音と、舞姫の衣に縫い付けられた硝子の鈴の鳴る音と、衣擦れのかすかな音だけ。
楽が終わり舞姫がひざまずいて優美に一礼しても、誰一人として金縛りにあったように動けなかった。
風の精霊たちが舞姫の薄絹の衣をひるがえして抜けていく。
静まり返った街道で、一人の男が気が狂ったように手を叩きはじめたのをきっかけに時が動き出し、夜空に割れんばかりの拍手と口笛が鳴り響いた。
舞姫は人々の賞賛に何度も向きを変えて跪いて応える。
小さな港町の夜に、拍手と口笛はいつまでも止まなかった。
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次の話
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