
長編|恋愛ファンタジー|混乱の背景-19-
「王太子、殿下」
ハルには従兄が一息で言った言葉がよく咀嚼できなかった。
「ハル殿の兄君だ」
「兄君……」
口中で何度か繰り返して、ようやくハルはシノレの言った言葉の重大さを認識した。それに気がついたとき、危うく声を上げそうになって、両手で口を覆う。
血の気の引いた線の細い端正な顔を心配げに見やって、シノレは話しはじめた。
「叔父上の話というのは、陛下のご病状がかなり良くないらしい。というようなものだった」
病床にあるガイゼス王国の現王、アンキウスは未だ壮年と呼ばれる年齢である。国王が公の場に姿を現す回数が減ったのは、二月ほど前のことになる。
王の病状は機密とされ、それを知るのはごく一部の限られたものだけである。その中にはハルやシノレなど王家の一族ですら入っていない。
国民の強い支持を受け、臣下からの信頼も厚いアンキウス王の病状が懸念されるのは当然であるが、王の容態に関し、周囲がこれほどまでに神経質になるのは他にも理由がある。
「陛下の治療を担う医師団の相談役には亡命したナディール人もいて、オリス神の祟りではないか、などと言っている輩もいるようだが……」
この国は以前にも、有能な指導者の早世という悲劇に見舞われている。
イミシュ・アンヴァーン。四十一歳の若さで早世した、シノレの父だ。
ナディールの人種差別思想とそれに根差した特権階級に反感を募らせた下層階級の人々が決起したのは、今から三十年ほど前のことになる。
決起といえども、力も武器もない人々の集まりである。町の役所に火を付けて一晩暴れただけで、それはいともたやすく鎮圧された。しかし、その一つの小さな反乱は、まるでナディール全土に鬱積していた不満に火をつけるかのようにしてたちまち燃え広がった。
鍬や鋤を手にとって暴れまわる男たちは、火の神に仕える神官たちの法術によって身を焼かれ、国都ハプラティシュになだれ込む人間たちは、法術による目に見えぬ壁に弾かれた。人知を超えた力を行使するナディール軍は決して数は多くないが、法力を持たぬ人間が立ち向かうにはあまりにも強大であった。
白人どもに法力があるのなら、我らにあるのはこの腕である──。
南方の小勢力の頭領であった赤色人種のイミシュ・アンヴァーンはそう高らかに宣言し、剣技に磨きをかけてそれをつぎつぎと力を持たぬ人間たちに伝え、器用な手先を活かして武器の改良に労力を惜しまなかった。
ナディール暦二二五年。イミシュが率いる軍勢と、国王軍の精鋭が衝突。
イミシュの大剣がナディール軍の中将とも言える、火神神殿の神官長の首を跳ね飛ばしたとき、ナディール国王は戦慄し、反乱勢力には希望の光が差し込んだ。以後十年に渡って続く、独立戦争の命運を占うような反乱軍の大勝利であった。
これより以後、イミシュはナディールという国家からの独立という明確な方向性をつけ、自ら剣を取り、馬を駆っていかなる時も先頭で闘った。武勇だけでなく指導力に優れたイミシュは、公正な理想主義者でもあった。
希代の傑物によって統率された反乱軍は神がった連勝を重ね、まさに破竹の勢いだった。イミシュの身に着けていた甲冑が目の醒めるような青であったことから、ナディール軍からは畏敬の念を込めて、味方からは親愛を込めて、彼はいつしか「青い英雄」と呼ばれるようになっていた。
ナディール歴二三五年。青い英雄、イミシュ・アンヴァーンはそうしてついにガイゼス王国を建国。翌、二三六年、独立を肯んじないナディール側の大軍と、後年「神すらも眉を顰める」と形容された一年間の凄惨な大戦を経て、停戦条約が締結され、事実上ナディールはガイゼスという国の興りを認めたのだ。
しかし、幸運は長くは続かなかった。
奇跡のように主権を勝ち取ってわずか四年後、初代ガイゼス王は原因不明の病に侵され、わずか半月の短い闘病を経てあっさりと身罷ったのである。
========
文字書きさん向け備考
戦闘描写①
戦闘描写②
場景描写