長編|恋愛ファンタジー|そんなことが人の命を左右していいのか?-5-
「メイラ……この町には、カイを診てくれる医者はもういないんだよ」
ハルは嘆息して目を伏せる。その仕草をリドルフはじっと見つめ、セティは明後日を向いてため息をついた。しかし、メイラと呼ばれる老女は表情をゆるめることもない。
誰にとっても愉快でない空気が流れる部屋に、怪我人の鞴のように荒い息遣いだけが響いていた。
「あんたがリドを良く思わないのは勝手だけど、一刻も早く処置しなければあの人は間違いなく死ぬ」
沈黙を打ち破ったのは、セティの放ったぶっきらぼうな言葉だった。
「あんたのこだわりのために、助かるかもしれない命をみすみす捨てるのか? 本当に、それでもいいのか?」
老女が眉間に刻まれた皺をさらに濃くし、眉をひそめる。
「そんなことが、人の命を左右していいのか?」
ハルが、黒鳶色の大きな瞳をさらに大きく見開いて、息を呑み眼前の美しい青年を見つめた。セティの声には激しさも強さもなく、素朴な問いかけをしているようだった。
そのとき、下唇を噛んでうつむいたメイラが、一歩横に避けた。リドルフはすかさず頭を一つ下げて彼女の脇を抜け、怪我人が寝かされている寝台の近くに寄った。
「刃傷ですね。かなり深い」
傷口を検めると、リドルフは淡々と言った。
「処置はしていただけますか?」
切迫した様子で問う少年の様子に、リドルフは視線を傷口に注いだまま逆に尋ねた。
「止血はいつ、誰が施したのですか?」
「メイラが傷を負った直後に。彼女には少し医術の心得があるので」
よく出来ている、とリドルフは言う。これだけきっちり止血をして運んだということは、誰よりも彼女がこの大怪我を負った若い男性を助けたかったということだ。
「やってみましょう」
リドルフは宿の女主人に頼み、熱い湯を用意させた。湯を運んできた彼女の神妙な顔付きは、室内に立ち込める血の臭いと、リドルフが取り出した見慣れない医術用具が理由だろうと、誰もが気に止めなかった。
しかし、このときすでに彼らはいわれのない悪意と、利己的な算段の包囲網にいたことを、この後知ることになる。
煮えたぎった湯のなかに放り込んでいた針を取り出し、リドルフは右腕の付け根から胸のところにかけて大きく開いた傷を、ていねいに縫いはじめた。
「クライン・リドルフ殿はどちらで医術を会得なさったのですか?」
ハルは驚きを隠しきれなかった。
彼の手付きは迷うことなく鮮やかで、傷口は見る間にきれいに塞がっていく。
一般に、医術の水準は今やガイゼス王国が一番高いと言われている。しかし、北の国の人であるはずのリドルフのそれは、ハルとメイラの郷国であるガイゼスの高等な医師の持つものと何ら変わりがなかったのである。
「傷口は縫い合わせましたが、問題は臓腑が負った傷です。それを癒す手助けのために法を使いますが、よろしいですか?」
首が千切れるかと思うほどの勢いでそっぽを向いたメイラに、リドルフはわずかに苦笑して付け加える。
「悪魔祓いのために法を使うわけではありません。この方にもともと備わっている自ら傷を治そうとする力を、強くするための法を使うのです」
相変わらずメイラはあらぬ方を見据えたままだったが、ハルが頷いたのをリドルフは最終的な意思決定とみなした。
縫合したばかりの傷口の上にそっと右手を置き、目を閉じる。
彼の口から紡がれる霊妙なマントラは優しく、穏やかで心に染みわたるようだった。ハルは我を忘れてそれに聞き入り、そっぽを向いていたはずのメイラでさえ神妙な顔でそれを見つめていた。
やや日に焼けた白い大きな手が返される。
いつしかメイラとともに食い入るように見ていたハルは思わず目を細め、その後ろにいたセティも顔を背けた。メイラだけが同じようにそのさまをじっと見ていた。
ハルが再び視線を戻したときには、リドルフは傷口から手を離していた。
「終わったのですか?」
何事もなかったかのように怪我人の体のうえにていねいにケットをかけ直し、リドルフは使った針を再び消毒しはじめていた。
「これから悪いものを体の外に出す薬草を煮出して、飲ませます。私ができるのはこれまでです。あとはこちらの方の体力と気力次第です」
嘆息して目を伏せたハルの脇で、メイラが厳しい顔で先ほどよりは幾分穏やかに呼吸する怪我人を睨みつけていた。
「お守りする立場にありながら、これほど殿下のお心を痛ませるとはなんたる不届き者。目を覚まさなければ、不肖の弟子にこの師自ら引導を渡してくれましょう」
その瞬間、リドルフは一度ずつメイラとハルを見て、口元に淡く苦笑を刻む。その横顔を見上げてハルが尋ねた。
「彼は──カイは、助かりますよね?」
心なしかうるんだような大きな黒鳶色の瞳に、リドルフは麻袋から乾燥した薬草を取り出す手を止めて諭すように言った。
「人の命を見放すのも、つなぎとめるのもすべてはオリス神の思し召し次第。私達にできるのは、良いほうに転ぶよう手助けをすることだけです」
ふい、とセティは部屋を出て行ってしまった。
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