読書前ノート(1)
はじめに
これは読書ノートではない。読書前ノートである。
最近買った本は多いけれども、とても読みきれない。だが、読んでから書こうと思ったら、いつまで経っても書けやしないだろう。ならば、読まずに書いて仕舞えば良いのではないか。少なくとも、なぜその本を買って読もうと思ったかぐらいは書けるだろう。
赤松明彦『『バガヴァッド・ギーター』——神に人の苦悩は理解できるのか?』(岩波書店、2008年)
本書はフンボルトやヘーゲルによる『バガヴァッド・ギーター』解釈を丁寧に読み解いており、西洋哲学研究者にとっても必読の一冊となっている。本書によれば、 ヘーゲル『エンツュクロペディー』第二版の加筆部分に『バガヴァッド・ギーター』への言及が現れてくる。ヘーゲルのインド理解については1825年から26年にかけて大きな意味を持っているという。
本書によれば、ガンジーは英訳で『バガヴァッド・ギーター』を読み、その上でサンスクリット語を学んでテクストに忠実に読んでいた。テクストに忠実な読解がガンジーの宗教実践に結びついていた点も興味深い。
臼杵陽『大川周明 イスラームと天皇のはざまで』(青土社、2010年)
『そうだ、西洋哲学ばかりではなく、たまには右翼の研究もしよう』と思って買ってきたのがこの本である。本当は『頭山満思想集成』(書肆心水)でも買おうかと思って書店に赴いたが、パラパラめくっても頭山満に何か思想らしきものがあるのかどうか判然としなかった。なので、大川周明のこの本にした。
大川周明(1886-1957)はイスラームの研究者であり、だから臼杵陽先生も大川周明を取り上げているのであろう。彼には『復興亜細亜の諸問題』や『日本精神研究』などの著作があるが、クルアーンの全訳である『古蘭』を出版した偉業は大きい。東條英機の頭を叩いたことで有名であるが、少なくとも戦時日本の代表的知識人の一人であったことは間違いない。
エドワード・J・ワッツ『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』(中西恭子訳、白水社、2021年)
ヒュパティア(Ὑπατία, 350/370-415)は、アレクサンドリア図書館で活躍した古代の哲学者である。この頃の「哲学者」といえば、もっぱら男性ばかりが取り上げられる。だから表題にも「女性知識人」とある。それほどまでに「女性」による学術活動は一般的ではなかったといえるだろう。
ヒュパティアは美人かつ聡明だったが、キリスト教徒によって嬲り殺しにされた。ヒュパティアの生涯は映画『アレクサンドリア』(Ágora, 2009)で描かれた。
岩波哲男『ヘーゲル宗教哲学入門』(理想社、2014年)
神保町の三省堂書店でたまたま本書を見つけて手に取った。ヘーゲルの著作の背後には、常に宗教性(とりわけキリスト教の)が垣間見える。それは『精神現象学』であれ、『論理学』であれ、『エンツュクロペディー』であれ、『法哲学』であれ、そうである。それはヘーゲルの生活圏がキリスト教的だったからだ。日本で生まれ育った私たちがヘーゲルを読む際に気をつけなければならないのは、書き手にも読み手にも共通認識として背後に前提とされているキリスト教的なあり方ではないか。アカデミズムに所属する者たちがいくらヘーゲルの著作に合理的論理的な解釈を施そうとも、書物の外にあるキリスト教的・宗教的前提は無視し得ないであろう。その意味では、ヘーゲルの宗教哲学について理解することなしに、『精神現象学』や『論理学』や『法哲学』の合理的に理解しやすいところだけに取り組んでいてはヘーゲル解釈としては常に不十分なのではないか。ヘーゲルの著作は明らかにローコンテクストではなく、ハイコンテクストな叙述に満ち溢れているのだから。
余談だが、かつてモーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は「ヘーゲルの精神現象学は小説のように面白い」と述べたそうである(竹田青嗣・西研の著作にそう書いてあった)。というか、誰がヘーゲルの精神現象学を小説ではないと言えるだろうか。いや、むしろ『精神現象学』は小説なのではないか、と考えた方がすっきりするのではないか。ある種のビルドゥングスロマンだという指摘もしばしばなされてきたのではなかったか。そもそも小説と哲学書の違いは何であるか。叙述様式の違いであろうか。もし『精神現象学』が哲学書の装いをした小説なのだと考えると、小説を読み解く手法が『精神現象学』の読解に応用できるのではないか。廣野由美子(1958-)は小説読解の技法として次のものを挙げている。「1、プロローグ、2、題辞、3、語り手の介入、4、パノラマ、5、会話、6、手紙、7、意識の流れ、8、象徴性、9、ミステリー/サスペンス/サプライズ、10、マジック・リアリズム、11、ポリフォニー、12、部立て/章立て、13、クライマックス、14、天候、15、エピローグ」(廣野由美子『小説読解入門』中央公論新社、2021年)。これらすべての技法を使いきることは難しいだろうが、例えば「3、語り手の介入」などはヘーゲルが『精神現象学』で——ときに"für uns"などと言いつつ——よく使う技法である。「1、プロローグ」については、まさにそれを主題にしたものが「序文 Vorrede 」で語られたりもする。「7、意識の流れ Stream of consciousness 」は、アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910)の用語らしいが、これもまさにヘーゲルが『精神現象学』で多用する技法である。メルロ=ポンティが述べた『精神現象学』の小説のような面白さとは、もしかするとジェイムズ・ジョイス(James Joyce, 1882-1941)の『ユリシーズ』(Ulysses)を読むような面白さなのかもしれない。
前田鎌利『課長2.0 リモートワーク時代の新しいマネージャーの思考法』(ダイヤモンド社、2021年)
前田鎌利さんはソフトバンクのOBであり、本書ではその頃の経験に基づいてマネージャーのノウハウが語られている。東浩紀『一般意志2.0』を彷彿させるタイトルだが、『課長2.0』というこのタイトルは、担当編集者が名付けたものらしい。「〇〇2.0」というのは要するにソフトウェアのバージョンアップを模した概念であり、DX化の流れの中ではあらゆる概念が外面的には幾度もアップデートされるであろう。しかしながら、本書を読んでいくと、リモートワークによって変化したのはコミュニケーションの技巧的な部分に過ぎず、「課長」ないしマネージャーの内面性、本質はむしろほとんどアップデートされていないことがわかる。だが、そうであるがゆえに本書はマネージャーの本質を抉り出すことに成功したと言えるかもしれない。
ところで本書とは趣が異なるが、リモートワーク時代の新しいマネージャーの葛藤を表現したアニメに『86―エイティシックス―』(監督:石井俊匡、原作:安里アサト、2021年)がある。原作はライトノベルであり内容もフィクションだが、その設定は現代社会に則って解読することができる。ヴラディレーナ・ミリーゼ(指揮管制官〈ハンドラー〉)は、いわばリモート時代のマネージャーとして、平和な本国から戦場にリモートで指示を出している。戦場で戦うのは、出身や肌の色から差別された、国民とは見做されていない存在、「86(エイティシックス)」である。「86(エイティシックス)」は戦場で5年戦い抜けば晴れて自由になるという契約の下で戦っているが、この「86(エイティシックス)」は5年戦い抜いても自由にはさせてもらえずに戦死するよう本国に仕組まれている。私見では、「86(エイティシックス)」は非正規雇用の人々を表象していると思われる。というのも、非正規雇用の人々は、5年雇用されたのちに雇用期間が無期限転換される権利を有するはずだが、無期限転換を阻止するために雇用主は5年経過の直前に雇用契約を更新しないようにすることがしばしば見受けられるからである(念の為書いておくと、すべての会社や団体でそのようなことが行われているわけではないが、一部の組織では見受けられるという意味である)。一方、本国からリモートで指示をだすミリーゼは、エリートコースに乗っていて戦場で死ぬ運命にはない。ミリーゼは、我々の現実世界で言えば、東京で勤務する総合職の若手マネージャーのようなものである。ミリーゼと「86(エイティシックス)」との間には社会的格差がある。そうした社会的格差のもとに成り立っているのが、リモートワーク時代の新しいマネージャーなのであることも忘れてはならない。
蛯谷敏『レゴ——競争にも模倣にも負けない世界一ブランドの育て方』(ダイヤモンド社、2021年)
「ソフトバンクでは「レゴシリアスプレイ」を活用している」という記事を読まなかったら、おそらく私が本書を手に取ることは無かっただろう。そもそも私は生まれてこの方「レゴ」で遊んだこともないし、「レゴシリアスプレイ」については全く知らなかったのだ。——というか、こんな面白そうな取組やってるなら教えてくれよ。そして僕も混ぜてくれよな。なに、お呼びでないって?——それはさておき、「レゴシリアスプレイ」を使って考えを実在化することは、ロジック偏重による思考の歪みを解消するのに役立つはずだ。というのも、「レゴ」は単なるロジックでなく、その手でもって実在的世界の中で構築される作品だからである。庵野秀明が『シン・エヴァンゲリオン』でプリウィズを用いて最適なカットを多角的に検討しようとしたように、立体的に構築されたレゴはロジックだけでは到達しない様々な見方と豊かな発想をもたらすであろう。
ところで、最近「ナノブロック nanoblock 」という「レゴ」の競合商品を見かける機会があった。「ナノブロック」はその名の通り、ブロックの大きさが最小のパーツで楽しめる玩具である。「レゴ」も「ナノブロック」もマインクラフトのようにイメージを立体的に再現可能であるが、「レゴ」がスピード感を持って概念的に組み立て可能であるのに対して、「ナノブロック」はパーツが細分化されていることによって組み立てるのに時間がかかる。それゆえ、「レゴシリアスプレイ」が成り立つのは、「レゴ」のパーツの大きさが大き過ぎず小さ過ぎないからだと考えられる。
イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』(金子洋之・大西琢朗訳、森北出版、2017年)
最近興味を持っているのが、数学と哲学の関係である。かの偉大な哲学者プラトンは、自身の設けたアカデメイアという学園において、算術や幾何学、天文学を哲学入門するための必修科目とした。
もし現代にアカデメイアを復活させるとしたら、我々は哲学に入門するためにどのような学問を必修科目とすべきであろうか。数学の歴史一つ取ってみても、数学の進歩が哲学に与えた影響は計り知れない。デカルトによる「座標」を用いた幾何学への貢献や、ライプニッツが微積分に与えた影響は、彼らの哲学といかに関わっているかということも問題となり得る。
哲学や思想の研究において数学上の概念が転用されることもある。東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)では、ルソーの「一般意志」の概念が、数学の「ベクトル」(→)の概念を用いて説明された。その限りでは、現代に生きる我々が『社会契約論』を研究するためには、数学Bまでは修めておく必要があるだろう。
本書がこういった問題関心への解決の緒になるかどうかはわからないが、少なくとも数学と哲学が密接に関わっていることは間違いない。しかも、表題の通り、「数学が哲学の問題になる」ならば、数学と哲学は相互に外的ではなく内的な連関を持っているはずである。
佐藤直樹『基礎から身につく「大人の教養」 東京藝大で教わる西洋美術の見かた』(世界文化社、2021年)
絵画を読み解く能力は、古典を読む上でも欠かせない。例えば、ヴィーコ『新しい学』(1744年)の口絵には、ルネサンス期の記憶術を踏まえて、エッチングの細かい表現の一つ一つに意味が込められていることが知られている。そうした意味を読み解くには、やはりモチーフとなっているコンテクストを知る必要がある。
我々は絵画をただ眺めることはできるが、無条件に絵画を読み解くことはできない。本書を読むと、絵画にもテーマがあり、またコンテクストがあるということを思い知らされる。
カート・セリグマン『魔法 その歴史と正体』(平田寛・澤井繁男訳、平凡社、2021年)
実は最近、アニメ『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』(原作:荒川弘、2009年〜2010年)を見直している。本作をアニメで最初に見たのは私が中学生の頃(2003年〜2004年)だったから、もう十数年も前の作品なのだが、この年になってようやく『鋼の錬金術師』が良く練られた素晴らしい作品であることが徐々に理解できるようになってきた。物語の最初に登場する法則は「等価交換」であり、この法則が一貫して貫かれている。ただし、「等価交換」を考察する際には、マテリアルな次元だけではなく、時間という不可逆な次元も考慮に入れる必要があろう。
エドワード・エルリックの父であるオーエンハイムの名前は、実在した錬金術師パラケルススの名前から取られている。「一は全」というのも、かつて錬金術師が唱えていた言葉であると本書には書かれている。アルフォンス・エルリックは魂だけが鎧に定着しており、眠ることができない。バリー・ザ・チョッパーはアルフォンスに対して、その魂は実は兄によって造られたものなのではないか、その記憶が造られたものではないという根拠はあるのかという問いかけを行う。それによって、アルフォンスは自身のアイデンティティが揺さぶられる。本来の肉体を失って鎧に定着した魂をめぐる哲学的な問いは、将来『攻殻機動隊』の世界のように義体化して永遠の命を得た人類が、それでも「人間」と呼べる存在なのか(はたまたそれをレイ・カーツワイルに倣って「ポスト・ヒューマン」と呼ぶ向きも出てきているが)という哲学的な問いを含んでいる。
『鋼の錬金術師』の世界では、錬金術の基本は「理解・分解・再構築」だと言われており、その限りで錬金術師はほとんど科学者あるいは化学者と変わらない。ただし、錬成陣と呼ばれる幾何学的な模様は魔術的である。『鋼の錬金術師』という偉大な作品の背後にあるこうしたモチーフを見つけ出すには、本書の概説的な記述が大いに役立つのではないだろうか。