なぜ人生はつまらないのか
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荒川幸也「なぜ人生はつまらないのか」(researchmap)
はじめに
人は人として生まれてしまったからには、そうやすやすと生命を止めるわけにもいかず、所与の状況下で生きていかなければならない。いくら人生がつまらないと言っても、急に生命の運動を止めることはできない。急に死ぬわけにもいかないから、所与の状況下で出来ることをやっていくしかない。
人生はおのずと思い通りにいくこともあれば、なかなか努力しても思い通りにいかないこともある。知識と経験に基づく推論である程度カバーできるにせよ、時に「運命」といか言いようのない不条理が突如として襲いかかってくる。世界が外に開かれているということと、不条理は、セットである。
なぜ人生はつまらないのか
目の前には美しい景色が広がっているのに、どうしてこうも人生はつまらないのだろうか。このように考えている時、「美しい」という判断は、知能で理解しているに過ぎず、感動とリンクしていない。
私が『人生がつまらない』と思ったことは一度や二度ではない。子どもの頃からそのように感じることが度々あった。私の子ども時代の感受性と、大人になってからの感受性とは、何か違うところがあるだろうか。大人になって変わったのは目の前の事柄を知識や推論で処理できるようになったかどうかだけで、感受性の基本的なところは何も変わっていないように思う。
コミュニケーションは絶望で出来ている
私は子どもの頃から、「大人の理屈」というものがサッパリ理解できないことが度々あった。『あなたはそのようにお考えなんですね』ということは、わかる。私が「サッパリ理解できない」というのは、私から見れば、他者のそのような考えがとても合理的だとは思えないからである。そういう「サッパリ理解できない」ことは、私が大人になってもたいてい「サッパリ理解できない」ままである。知識が増えるにつれて、「サッパリ理解できない」ところの溝は深まっていくばかりである。そうなってくると、コミュニケーションを取ろうにも、相手の述べている内容に同意ができないから、共感を示すことが徐々に難しくなってくる。知識が増えるにつれて、他者の主張に同意し難いケースが増えてくる。そうなると、「そうだよねー、わかるわかる」という共感型のコミュニケーションを取ることも次第に難しくなってくる。コミュニケーション機能不全は絶望の始まりである。
おわりに
人生がつまらないし、他者への共感も難しい。そもそも社会を形成することでわざわざ生きる意味などあるのだろうか。ないかもしれない。しかし、意味がないからといって途中で止めることができないのもまた人生である。