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「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」はかぐや姫なのです!

藤原道長が栄華と権勢を誇ったのは有名なのです。

藤原道長は一条天皇期の関白藤原兼家の子であり、兄の藤原道隆・藤原道兼の後塵を拝する立場であった。しかし兄たちが相次いで病に倒れ、道隆の息子藤原伊周兄弟との権力闘争に勝利したことで、道長は朝廷を主導する立場についた。道長は娘である藤原彰子を一条天皇に入内させ、天皇の中宮(正妻)として立后した。
寛弘8年(1011年)、三条天皇が即位した。道長は娘の藤原妍子を入内させ、中宮として立后している[3]。しかし道長は一条天皇と彰子の子である敦成親王の早期擁立を狙い、三条天皇に圧迫を加えた[3]。このような状況下で三条天皇は藤原実資ら小野宮流の廷臣に頼った[4]。小野宮流は兼家の伯父藤原実頼の系統であり、当主実資は有職故実に通じた朝廷の実力者で、しばしば公然と反対活動を行う気骨のある人物として知られていた[5]。しかし道長の圧力は強力であり、実資らも天皇との関係強化には慎重であった[6]。
長和5年(1016年)、三条天皇は眼病の悪化もあって退位し、敦成親王(後一条天皇)が即位した。道長は摂政となったが、健康不安もあって子の藤原頼通への権力移譲に注力することとなった。翌寛仁元年(1017年)には摂政を頼通に譲り、更にその翌年寛仁2年(1018年)2月9日には太政大臣も辞任して表面上は引退状態になった。頼通のほかの高官はほとんど道長派であり、警戒する必要があるのは大納言となっていた実資のみであった[7]。威子の立后はこのような状況で行われた。これにより太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子という三后すべてを道長の娘が占めるという空前絶後の事態[注釈 1]となった[9]。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば - Wikipedia

藤原実資は道長のライバルなのです。気骨のインテリなのです。

藤原北家嫡流・小野宮流の膨大な家領を継ぎ、有職故実に精通した当代一流の学識人であった。藤原道長が権勢を振るった時代に筋を通した態度を貫き、権貴に阿らぬ人との評価を受けた。最終的に従一位・右大臣に昇り、「賢人右府」と呼ばれた。実資の残した日記『小右記』はこの時代を知る貴重な資料となっている[1]。

藤原実資 - Wikipedia

実資は娘の千古を「かぐや姫」と呼んでいたのです。

平安時代の右大臣・藤原実資の娘・千古の愛称(『大鏡』)

かぐや姫 - Wikipedia

かぐや姫は帝の求愛を断ったのです。

帝が狩りに行くついでに不意をつき、かぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、神輿を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。

竹取物語 - Wikipedia

帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった[注釈 33]。それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。

実資は娘を天皇に嫁がせようとしたが、道長に阻まれたのです。

実資は千古を天皇の妃にすることを望んだが、表面上は実資に敬意を払いつつもその政治力の拡大を恐れる藤原道長・頼通父子の前に入内を阻まれた。

藤原千古 - Wikipedia

さて、歌がが詠まれたのは道長の娘が帝に嫁ぐことが決まった日の宴なのです。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」(このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば)は、寛仁2年10月16日(ユリウス暦1018年11月26日)に、太閤・藤原道長が詠んだとされる和歌。この日は道長の三女・藤原威子が後一条天皇の中宮として立后された日であり、摂関政治の絶頂を示した歌としてしばしば引用され、望月の歌と呼ばれることもある[1][2]。

道長は実資に返歌を求めて詠んだのです。実資は「返歌する」と言ったにもかかわらず、できなかったのです。

その後、道長は実資を呼び、「歌を詠もうと思う。必ず和してくれ(返歌をしてくれ)」と頼んだ。実資は「和さないことなど有りましょうか」と応じた。道長は「これは誇りたる歌(自慢している歌)に思われるかもしれない。しかし事前に作っていた歌ではない」と述べた後、次の歌を詠んだ[10]。

此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ
—藤原道長、『小右記』寛仁二年十月十六日条[10][13]

実資は「御歌優美なり」と褒めたが、「和すことはできません。皆でこの歌を吟詠するしかありません。かつて、白居易が元稹の菊の詩を聞いたとき、詩を返さず深く賞翫し、終日吟詠したものです。」と返答した[10]。この話に感じ入った公卿たちは、数度歌を吟詠した。道長も重ねて返歌を求めることはしなかった。夜更けとなり、月が明るい頃、参加者は各々帰宅していった[10]。この日、太陰暦の10月16日にのぼる月は「望月(満月)」ではなく「十六夜の月」であった[13][注釈 3]。

道長は娘を皇后にできたので「望月の欠けたることも無し」、つまり道長のかぐや姫は十五夜に月に帰らなかったのです。実資は政治でも歌でも道長に完敗し、うぐぅの音も出なかったのです。

道長自身は『御堂関白記』同日条においてこの日の宴について記しているが、歌については「於此余詠和歌」と、歌を詠んだこと、皆でそれを吟じたことのみが書かれている[9][16]。道長が歌を書き残さなかった理由については竹内理三が指摘して以降様々な研究が見られる[17]。竹内理三は「誇りたる歌」に道長が照れたことや、物事が満ち足りると、かえって災いが起きやすいという「盈満思想」に囚われていたためではないかとしている[11]。池田尚隆はその場限りの歌であるから書き残さなかったのであろうとしている[11]。山中裕は「もう若いときのように日記に書き留めるほとばしる気持ちがなかった」とし[18]、朧谷寿は「泥酔しすぎて翌日日記に向かった時に思い出せなかった」という「下種の勘ぐり」を示している[18]。末松剛は公家の日記はそもそも政治生活の記録やメモであり、即興の和歌が記されないのは当然のことであり、記されなかったということに意図や思想を見るべきではないとしている[19]。

道長はたまたま16日だということを思い出して即興でマウンティングしただけで、自分では大した歌だとは思っていない、というか書き残すとヤボなのです。

ということはウィキペディアだけからでもわかるのですが、うぐぅの音が出なくなるにも教養が必要なのです。

君が代は
千代に八千代に
細石の
巌となりて
苔の生すまで

君が代 - Wikipedia

「巌」と「望月」を掛けており、「この世」は「我が世」ですが「君が世」はかぐや姫の月世界なのです。つまり娘のこの世ならぬ美貌を詠んでいるのです。権力闘争に明け暮れる自分には戦乱や疫病や災害ばかりのこの世が相応しいが、かぐや姫の月世界は悲惨のない世界であり、それが「望月の欠けたることも無し」なのです。

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