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0.01秒のための何千時間と感謝―6年間の陸上競技生活で考えたこと―

今回は、陸上競技について書きたいと思う。

題名には「6年間の陸上競技生活で考えたこと」と、かなり大それたことを書いているが、まずこの6年とは、中学・高校の6年間を表しており、大学4年になった今、振り返って書いているものである。

陸上競技を引退してから4年以上が経過しているが、その当時のことをこうして文章にするのは初めてである。書こうとしたことはあったが、想いや記憶や感覚があまりにも生々しくて、それらと距離感を掴むのが難しかったのである。

でも、時間というものは上手くそれらを包み込んでくれる。一度記憶のスイッチがオンになると、書きたいことがどんどんと僕の脳内を流れては留まり、行ったり来たりして、収拾がつかなくなる。

だから今回は、自分の頭を整理する意味も込めて、内容を絞って書いてみたい。

僕は、6年間短距離選手として陸上競技に関わってきた。中学の終わりには駅伝を走ったこともあるが―あれは本当に苦しかった―、僕は短距離が好きだ。100m、200m、400m、それぞれ違う楽しさがあってどれも好きだ。でもやっぱり、僕は200mに一番惹かれた。

スタート前の張りつめた緊張感。どくどくと流れ出るアドレナリンの感覚。それらを上手く抑え込むようにする深呼吸。研ぎ澄まされた感覚。コーナーを走る間のじれったさ。コーナーを抜ける時の爽快感、解放感。大きくなる歓声を感じながら、無意識に力むなよと言い聞かせる自分。ゴール後の達成感。激しさを増す鼓動。結果への期待。

書くときりがないが、その何もかもが好きだった。もちろん、自己ベストを更新した時は素直に嬉しい。自己ベスト更新は、順位がどうであれ、内容がどうであれ、素直に喜ぼうと決めていた。なぜなら、過去の自分を少しでも超えることが出来たからだ。

そう、僕はいつも過去の自分と闘っていた。過去の自分より、0.01秒でも速く走りたい。僕はそのことだけを考えて、じゃあそのためには自分のどこを強化すればいいのか、どこを改善すればいいのか、何をすべきなのか、毎日毎日必死で考えて、練習に励んでいた。

その当時は必死過ぎて僕はこのことを考えもしなかった。

僕は0.01秒のために、何千時間を費やしたのだろう?

今僕の部屋にはデジタル時計があって、当たり前のことだけど止まることなく秒数が進んでいる。それをボーっと眺めてみる。01が02になり、02が03になる。58が59になれば、次にはまた01がやってくる。それを眺めるのは、本当に、楽な作業である。いや、作業と言わなくてもいいほどだ。

でも僕はかつて、その01が02に変わるその間の、さらに細かい、001と002の間を生きていたのである。001と002の差に、一喜一憂していたのである。001のために、途方もない時間を捧げたのである。

自慢がましく聞こえてしまいそうだが、これって今思うと本当にすごいことだなと思う。

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そしてもう一つ大事な事。それは何千時間費やしたとしても、0.01秒が縮まらないこともあるということだ。そう、何千時間努力しても、本番で力を発揮できなければ、0.01秒の壁は壊せないのである(もちろんその努力は無駄ではない)。

かなりシビアな世界だと、僕はつくづく思う。でもそれと同時に、シンプルな世界でもある。それは、自分の行為が総て自分に返ってくるからだ。自分がサボれば、自分が損をする。自分が努力すれば、自分が得をする。ザッツ・オール。

シビアであり、シンプルである。この潔さみたいなものが、陸上競技の魅力の一つではないかと思う。もっと言うと、この潔さみたいなものが、人を陸上競技の道へと駆り立てているのではないだろうか。

もちろんこれは他のスポーツにも言えることだ―特に個人種目に対して―。だから、もし陸上競技以外のスポーツをしている人がこの文章を読んで、共感をしていただけたら、大変嬉しい。


最後に、このシンプルでシビアな世界を生きていくために、欠かせないことがある。それは、自分を支えてくれる存在である。この世界では、絶対に一人では生きていけない。今改めて振り返ってみて、どれほど家族や仲間、コーチなど、自分の周りの存在が大切であったかを思い知らされる。

確かに、本番、あのレーンを走るのは自分である。自分がスタート地点に立って、自分がゴールしなければならない。孤独である。しかし、それは決してネガティブな孤独ではない。色んな人の支えがあるからこそ、孤独でいられるのだ。周りの存在があるからこそ、シンプルでシビアな世界を走っていくことが出来るのだ。


こんなことを考えていると、またあのスターティングブロックに、足をかけたくなってきた。

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