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「九度山養生食堂」の展開


免疫食堂ー「外食」経済社会のプラットフォームのパラダイムシフト

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「九度山養生食堂」の展開


「なんじ、疲れたる者よ、われに来たれ。われ、なんじに元気を恢復せしめん」


「元来、外で食事するのは下層社会の習慣で、必要止むを得ざるところから発生した。中世時代、一般庶民の住居には煙突もなければ暖炉もなく料理の設備は一切なかった。1763年のことである。パリヘ食堂(ダイニングルーム)と称する店を出して上等のスープを売っていたムッシュ・ブーランジェが店の表へ看板を出した。ラテン語でこう書いてある――『なんじ、疲れたる者よ、われに来たれ。われ、なんじに元気を恢復(レストアーレ)せしめん』この店のスープが『レストラン』の名で有名になり、やがて店そのものが『レストラン』と呼ばれるようになり、遂には高級な食事を出す店はすべてレストランになった。」

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九度山養生食堂は、5月6日以降の
開設を予定しています。

一部屋一組限定のコースメニュー

⚪︎玄米絶食コース
⚪︎養生治療食コース
⚪︎免疫臨床食コース

「九度山養生食堂」の料理は、薬膳でもマクロビオテックでもありません。プロの料理人はいません。日本の伝統食である素食です。だから、あなたは「九度山養生食堂」に通う必要はありません。自宅で誰にでも出来る「食」の芸術です。泳ぎ方を覚えたら、あとは自分で泳ぐだけ、全て「自己学習」と「自己表現」です。あなたの「家」で、あなたの「食堂」をぜひ開設してください。


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アーユルヴェーダは食べる行為を、私たちの個人々に宿る神に供物をささげる行為だという。

馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である 朝夕の食事はうまからずともほめて食うべし。
元来、客の身なれば好き嫌いは申されまじ。




「九度山養生食堂」における
「食」の芸術の考え方


人類は数多くの失敗と挑戦を乗り越えて、現在の食文化を築いたとも言えるだろう。我々はパクチーという悪臭の草を食べ、毒を恐れずフグを食べる。ウニや猿の頭蓋をこじあけ、生の卵を白米にのせ、麦芽をアルコール発酵させてビールにする。その歴史は、信じがたいほど前衛的な試みと、失敗による苦痛と死者の怨念に満ちている。
料理もまた、芸術のように、拡張され、進化してゆくものであるとされてきた。

より美味でより栄養のあるものを、という食の実践における規範は、前衛的な料理の可能性を否定するものではない。だが、九度山には九度山のやり方がある。食の芸術は、美しく盛り付けられたフランス料理を指すのではなく、芸術と市場の境界線上に位置する広大な領域、専門的料理人によるのでなく、非専門的料理人によって作られ大衆によって享受される。一つの料理には、生産、加工、管理、流通、調理、配膳、広告といったさまざまなプロセスが含まれ、多くの人による行為を通してはじめて「創造」されるが、食の芸術は、そのどれでもなく、また、そのどれでもであると言える。つまり、食の核心は何を選び、どのように食べるかという行為そのものなのである。

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医食同源という考え方


「人間の健康や疾病の診断・治療・予防を行い、人間に有益で人間の体を正常にしていくものの総称」

これは、薬の「概念」であると同時に、食べ物の「概念」でもある。

料理においては、より美味でより栄養のあるものを提供するという実用的側面に重きが置かれる。換言すれば、そのように実用的な目的は、食の実践における規範として機能している。

人類社会は、人間を苦しませる病があり、それはある栄養補給が不十分だということが原因だとすれば、どの栄養素がどういう作用をし、どのような食品にその栄養素が含まれているのか、ということを突き止め、国民の皆が摂取できるようにすることを追求してきた。

だが、「欠乏の終わり、過剰の始まり」という現代においては、現代人は、体の機能を無視して食べ過ぎている。小食にすれば食べ物の処理をする掃除の労力が少なくなり、異物処理に力を発揮できることになり免疫力は上がる。

現代社会は、「食物と栄養」から「人間と栄養」、つまり人間栄養学が求められている。
栄養とは生体が外界から物質を取り込むことや、とりこむことにより体の機能を維持したり高めたりすることである。別の表現をすると、口から入った食品を消化・分解・吸収などを通して利用する、健康に生きてゆくための様々な営みを指すための総称である。 生物はこうした栄養という営みを通して体を構成する成分を作り、体内でエネルギーを生み出して生きている。栄養とは生体が外界から物質を取り込むことや、とりこむことにより体の機能を維持したり高めたりすることである。

料理とは、口から入った食品を消化・分解・吸収などを通して利用する、健康に生きてゆくための様々な営みを指すための総称である。 生物はこうした栄養という営みを通して体を構成する成分を作り、体内でエネルギーを生み出して生きている。

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料理はメタファー的な例示によって、情動を表出することもできる。この意味で、肉じゃがは日本の、そして、ラタトゥイユは南欧のお袋の味を表出しうる。

食における作者とは、誰なのかという問題がある。もちろん、調理に携わる料理人であろう、と言われるかもしれない。しかし、これは必ずしも自明ではない。

九度山においては、料理におけるこのようなありかたは、「単一の作者」という近代的幻想を否定する。もちろん、より美味でより栄養のあるものを、という食の実践における規範は、前衛的な料理の可能性を否定するものではないが、九度山には九度山のやり方がある。

食の芸術は、美しく盛り付けられたフランス料理を指すのではなく、芸術と市場の境界線上に位置する広大な領域、専門的料理人によるのでなく、非専門的料理人によって作られ大衆によって享受される。

一つの料理には、生産、加工、管理、流通、調理、配膳、広告といったさまざまなプロセスが含まれ、多くの人による行為を通してはじめて「創造」されるが、食の芸術は、そのどれでもなく、また、そのどれでもであるとも言える。つまり、食の核心は何を選び、どのように食べるかという行為そのものなのである。

九度山における料理の役割とは、すなわち人類の生命や地球環境のバランスを調整することであると考える。これから地球に何が起こるのか。これから僕達が何をしないといけないのか。

皮肉にも生き方は新型コロナという未知のウイルスが教えてくれた。

人類の役割とは、すなわち地球環境のバランスを調整することである。特に興味深いことは、地球の未来の部分である。地球の未来についてはまだ確定的でなく、今後の人類の動向により廃墟になるか、緑豊かな地球になるか決まる。



「九度山養生食堂」の「客」とはそういう考え方を共有できる人間のことである。

私たちは「客」を選ぶ、
そして、「客」に対してこう言う。


『なんじ、疲れたる者よ、われに来たれ。われ、なんじに元気を恢復(レストアーレ)せしめん』


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