![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164732184/rectangle_large_type_2_e8ff02cdd09cc1a5c7e37fc728729fd2.jpeg?width=1200)
「難民といっしょにロボットを作る」〈市長小学校〉GEIJUTZEの非ターゲットー「現代アート」
「難民といっしょにロボットを作る」
〈市長小学校〉GEIJUTZEの非ターゲットー「現代アート」
この国のアートシーンでは物事を難しくすることで、無理やりに美大を頂点とした美術教育システムを成立させています。難しくするには理論をつけなければいけない。理論的になると説明が必要になる。そして説明がないとわからない作品が次から次へと誕生する。「芸術」についての知識がないと美術館に行っても敷居の高さを感じます。どこかの偉い権威たちが,この作品は良い!と言ったら,それが良い作品であり,構図とか色使いとか歴史的背景とか,彼らの言う良さを知識として理解していないと,美術作品を楽しんだことにはならないという暗黙の圧力が存在します。
この国においては、芸術創造は楽しむためのものではなく、専門家、プロ志向で評価と競争が伴う厳しいものになっていて、ある種の「権威」により、プロと素人の間に大きな格差が設けられています。日本で、美術や音楽が好きでその道に行こうとしたら、プロ指向の道しかない。そこにはつねに評価や成績、選抜、競争があり、日本ではこうしたことは芸術だけではなく、根強い「権威」志向が存在する。 残念ながら現在のアート教育においても技術偏重、理論偏重の芸術の本質においてあまり意味のない教育サポートが行われています。 もともと「芸術」はプロとしてお金をかせぐためにあるのではなく、人々に生きる喜びを与え、惰性になりがちな日常から解放させるためにあるべきなのです。
〈市長小学校〉のGEIJUTZEは無名によるコモディティ、
現代アートとの違いは
文学的な〈題名〉の命名とシグネチャーだけ
現代社会は人がはじめからもっている力とされる初期力=デフォルトのエッジを覆い、協調性を持たせることにより均衡した社会基盤を形成する手法で現代を作り上げようとしてきたことにより、初期力の存在を意識する感覚が大衆のなかで遠のいてきました。
芸術的評価は世界的全体的な視点からなされるものであって、日本国内における偏狭的な評価を基準とするものではありません。今、芸術に必要なのは表現技術分野ではなく、あくまで「芸術を理解する能力」つまり、アートリテラシーです。日本の芸術教育やデザイン教育の最大の問題点は世界的視野を持ち解読する能力が欠落している。表現よりも理解や共生という基礎能力の獲得、芸術を通した経済至上主義の国民性の改革、アートを通したあるべき社会像の模索。これらの、日本人の欠落している多くの問題は、芸術教育の失策が最大の原因だと言えます。
この国では、現代アーチストがどのような行為をしても、それは現代アートの文脈でしか解釈されず、ギャラリーやミュージアムでは十分な活動の余地を与えられはしても、それはあくまで現代アート作品なのであり、それ以外のものではないとみなされてきました。
現代アートのインスタレーションも、それが多元的で矛盾を含んだ諸価値のなかにみるものを投げ込むことによって、鑑賞者を取り巻く社会環境の矛盾への問題提起を意図するが、こうしたインスタレーション自体が現代アーチストの作品として、これらの諸価値に対するメタ・レベルの価値を付与されてしまうと、インスタレーション自体がはらむ矛盾のダイナミクスは、
現代アーチストの芸術という単一の価値に解消されてしまいます。
こうして、インスタレーションそのものが現代アーチストの作品として、芸術的価値をまとってしまっているために、作者の趣旨は実感しづらくなってしまうというパラドクスが生じる。
問題なのは芸術作品の意味や意図ではなく、芸術という制度の枠組みそのものだという自覚という点で、現代アーチストの定位やその観点は曖昧であると言わざるを得ない。この国の芸術にとっての幻滅は、政治的社会的な状況によってだけではなく、現代アートの堕落と喪失からの脱力感によっていっそう手酷かったといわねばならない。
フォルケで展開される「自己学習」、「自己表現」、「自己療育」
GEIJUTZE のファシリテーターとオップリュスニング
私たちの臨床とは現場を重視する立場のことです。デンマークにおいては、先生を「ティーチャー」と呼ぶこともやめた。生徒が自分で考えることを助けるという意味の「ファシリテーター(促進者)」に変えたのである。世界の先進国の多くは、とっくの昔に21世紀に対応した教育システムに移行している。教えるという概念の前提は、教える人が答えを知っているということであり、教えられる人はその答えを覚えるだけになってしまうため、自分で考える能力がなくなってしまう。しかし、そもそもそれ以前に、現在のティーチャーたちは正しい答えをほんとうに知っているのだろうか?
バウヒュッテでは自己学習により運動は展開される。まずは「描写」しながら「思考」する、そして「展開」を図っていく。そこには「ティーチャー」は存在しない。そして、全て自己学習により運動は展開していく。もちろん、サポートは必要だがそこにいるのは、「ティーチャー」ではなく、自分で考えることを助けるという意味の「ファシリテーター(促進者)」の存在である。
ケッソン・シューレは、オップリュスニング(oplysning)を念頭においている。オップリュスニング とは、「灯っている」「滲んでいる」という概念で、それぞれの人やモノが、自分の内にあかりを灯すこと。そのあかりでたがいに照らし合い、影響を受け止め合って、ともに成長して行きます。
私たちは決して褒めない、
そんなことに何の意味もないし、きりがない。
それが私たちのコンソーシアムの概念である。
オップリュスニング は、立派な作品を完成させることが目的ではないので、うまくできたら褒めればいい、という作為的なことは行わない。「うまければ褒める」というのは「うまくなければ褒めない」ということである。褒められたいと思うと、「褒められるように描く」となって、その人の本当に表現したいものは引き出されない。評価が伴った途端、表現には苦しみが伴うようになるのである。
本人を環境に適応するよう単線的な「定型」の発達へと変えるのではなく、本人の発達特性にあわせて、環境の側の調整を行うことがゲイジュツの使命であり、そしてゲイジュツにはその力がある。
パブロ・ピカソは「ようやく子供のような絵が描けるようになった。」という名言を残している。アカデミーやカウンシルなどを目標にすることは全く意味がない。逆に、そのような教育に受けることにより、才能が削ぎ取られてしまいます。なぜなら、彼らのアールブリュットの表現こそがデフォルトなのです。私たちが彼らを教授するのではない。彼らの独創や最後までやり抜く才能を教授してもらい、私たちが難民から学んでいくのです。
現代アートとイネイブリング
何らかの自立を必要とする人を支援する立場にある人たちは、イネイブリングの罠にはまる危険があり、イネイブラーと呼ばれる人たちは、ほんとうは自分の足で立てるはずの人に手を貸してしまう。このティーチャーを装ったイネイブラーは、主役は自分のほうだと思いがちでだ。この社会は「善人に見える人」を賞賛する。イネイブラーは、自分の並外れた博愛的性格だけでなく、その能力を見せつけます。他の人たちの責任まで引き受けることが出来るのは、実に格好のいいことである。こうして彼らは周囲からの賞賛を集め、うぬぼれを強めていく。とくに、アートの領域においては、アカデミーにおけるティーチャーと呼ばれる人間が『初期力ー人がはじめからもっている力』のエッジを覆い、協調性を持たせることにより均衡した社会基盤を形成する手法で現代を作り上げようとしてきたことにより、「初期力」の存在を意識する感覚が大衆のなかで遠のけてきたのが現実でなのです。
「廃材」が風景に見えるー
その感覚が現代アートにわかるだろうか
一般社会は、自閉を自分だけの観念世界の中で生き、「現実との生ける接触の喪失」した状態と決めつける。
しかし、自閉の人間に世界がどう見えているのか、わかっているのだろうか。もちろん、「知能」が人間の社会的適応度と相関するのも事実である。知的能力と考えられるものを全て計測することは、無論不可能である。現代科学は、『〈わたし〉はどこにあるのか』すら、何も全くわかっていない状態なのだ。
心はもともと閉鎖系だ。知の原型は、主観的で身体的なクオリアをベースにして、一人称的なものとして形づくられます。
そもそも「知能」は単一ではなく、複数ある。「知識」とは「記憶」を取り出す根源的能力のひとつにすぎない。多重知能理論は「人間は誰しも複数の知能を持っている。長所やプロフィールが個人によって違うように、人によってある知能が強かったり、ある知能が弱かったりする」という考え方だ。しかし、「知能」をいくら細分化しても、脳の不思議には到達しない。
この国では、あたかも現代アートがアール・ブリュットよりも高位にあるような錯覚の中で、技術偏重の意味のない教育サポートが行われている。しかし、残念ながら日本の社会においては、西欧のような現代アートのマーケットは将来に見渡しても存在することはありません。
現代アートでは、高く売るためだったり、伝えたいメッセージだったり、意図的なものや恣意的なものがどこかに必ず入ってくる。予定調和的なコラボレーションにおいては、意図されたもの、作為的なものにしてしまうことが多いように思えます。こういうとき一旦、。意図的に、スタートとゴールの部分をばっさりと切り取り、プロセスを自律的に浮かび上がらせそしてプロセスの中にある偶然性、即興性、意外性を受け止めることにより無意識に隠蔽している大切なものが浮上する。
残念ながら、現在行われている自立支援に向けてのアート活動の在り方は、極めて教条主義の形式的で硬直的な取り組みが続いています。行政においてはアートを活かした障害者の就労支援に向けた取組みの一環として、圏内に多く存在する優れた才能を発掘して、「現代アート」としての評価を行い、広く一般の方に作品を知ってもらうため、公募展や企画展等を実施しています。というような内容が正解とされ、行政の支援を得るためにはその活動内容は似たり寄ったりの表層的な形式主義の似たりよったりの活動にならざるを得ないのです。